掛川城主に抜擢された石川家成

家康は三河統一を果たすと遠江(静岡県西部)に侵攻。永禄12(1569)年に石川家成を掛川(懸川)城主(静岡県掛川市)に抜擢した。ここで、西の旗頭の家成が東側の最前線に赴任する逆転現象が起き、甥の数正が西の旗頭を引き継いだ。また、天正7(1579)年に築山事件が起こり、岡崎城主・岡崎三郎信康が自刃させられると、数正が岡崎城代を務めた。

天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦で石川数正は酒井忠次等と小牧山の本陣を守り、合戦後には羽柴秀吉との交渉役となった。同年12月、家康は次男・於義丸おぎいまる(結城秀康)を秀吉の猶子として差し出すことを決め、石川数正の次男・勝千代(のち石川康勝)、本多重次の長男・仙千代(のち本多成重)も秀吉の下に送られた。

掛川城復興天守
静岡県掛川市の掛川城復興天守。山内一豊が城主になる前は石川家成親子の領地だった[写真=投稿者モッチー/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons]

数正は妻子を連れて秀吉の下へ出奔

小牧・長久手の合戦後、秀吉は織田・徳川連合軍に加担した諸将への征討を開始。翌天正13年8月に越中(富山県)の佐々成政を降した。これに先立ち、秀吉は家康が成政に通じているとして、追加の人質を要求した。石川数正は秀吉との交渉役として家康への説得を試みるが、徳川家臣団の反発は強く、交渉は決裂。天正13年11月13日、数正は妻子を連れて岡崎から織田信雄の領国・尾張に出奔し、そのまま秀吉に仕えてしまう。

秀吉と交渉するうちに徳川家中で浮いたか

「豊臣兄弟!」のガイドブックによれば、数正が出奔した理由は、三方原の合戦で武田信玄に大敗した家康が、その後は数正を自分を諫める役に任じたからだという。

実際のところ、その理由は分かっていない。数正は秀吉との交渉役で大坂城をたびたび訪れており、秀吉の実力を誰よりも知っていた。そのため、対秀吉強硬派が多い徳川家臣団では浮いた存在になってしまったというのが有力な説だ。

サラリーマン的な視点で考えると、数正は社内人事で世代交代をまざまざと見せつけられたところに、高額な報酬をちらつかせた競合企業からヘッドハンティングのお誘いがあり、乗ってしまったというのが実相ではないか。

姉川の合戦、三方原の合戦、長篠の合戦ではいずれも、石川数正は三備の一角を預けられた。しかし、長久手の合戦では小牧山守備隊の一員にとどまり、かつ消極的な姿勢を家中から嫌われたという。