石川数正の叔父・家成という存在
家康は桶狭間の合戦後に三河統一に動き、永禄10(1567)年頃に「三備」という軍制改革を行い、有力家臣を東の旗頭・酒井忠次、西の旗頭・石川家成の組に分け、さらに家康直轄の旗本備を置いた。そう、この時期、徳川家臣団の二大巨頭は酒井忠次と――石川数正じゃなくて――石川家成だったのだ。
石川家成は数正にとって叔父にあたる。生年は天文3(1534)年で、数正の生年が1533年であれば、叔父でありながら1歳年下となる。なぜ、数正ではなく、叔父の家成が西の旗頭に選ばれたのか。それには二つの理由が考えられる。
家成は家康の実の従兄弟だった
第一に、家成は徳川家康にとって実の従兄弟にあたる。数正の祖父・石川忠成(一般には清兼)が水野妙茂(一般には忠政)の娘を後妻に迎え、その間に生まれたのが石川家成だ。家康の母・於大の方は妙茂の娘であるから、家成は家康の従兄弟になる。
第二に、三河一向一揆で一揆勢のボス格となった石川修理広成が、数正の実父の可能性がある。三河徳川家研究者の煎本増夫氏は、『寛政重修諸家譜』の石川清兼の項に「嫡孫伯耆守(数正)」という記述があることに注目し、その父・広成(康正)は石川家の嫡男であったが、三河一向一揆の首謀者となったために廃嫡され、三男の家成が家督を相続したのだと推測している(『戦国時代の徳川氏』)。


