下情に通じた奉行の決断
奉行所の重要な仕事の一つに、私娼の取り締まりがあった。私娼は公認の遊郭・吉原以外の場所で売春する女性たちで、岡場所といわれる地区などを仕事場としていた。歴代の町奉行たちもたびたび摘発しており、景元も百人超の女を捕縛したという。大半は十代の貧しい少女で、罰は吉原に預けて三年間、無償で働かせるのが慣例だったという。
景元はこれでは不憫と思ったらしい。刑を一年短縮したいと水野へ申し出た。そうなると実質二年だが、丸二年という意味ではなく、二年以内であればいい――つまり数日、吉原で働くだけでも可という案を出したのである。
意見書には、こうあった。
「この者(私娼)たちは身を削って親兄弟に金を送っています。三年もただ働きをさせては、家族がさらに困窮を極めるでしょう。仁恵(思いやりと恵み)をもって吟味していただきたい」
水野はこの意見を採用し、吉原での働きを十日ほどに減免した。
下層階級にあえぐ者たちの境遇には情状酌量の余地あり、それが景元の考えだった。のちに“遠山の金さん”として親しまれたのは、こうした下情(下々の実情)への配慮が民衆にも伝わっていたからだろう。
罷免されてなお、大衆の楽しみを守った
景元はもともと水野忠邦に引き立てられ、町奉行になった。しかし、水野が主導する「天保の改革」が町人たちに無理を強いるため、次第に反発するようになった。
天保の改革の骨子は経済政策をはじめ、農村から江戸へ流入した人々を強制的に帰郷させる「人返し令」、江戸・大坂周辺の大名の領地を幕府の直轄地とする「上知令」などが主だが、庶民にとって厳しかったのは寄席の撤廃、歌舞伎小屋の所替(辺鄙な場所へ移転させる)、床見世(屋台などの露天商)の禁止など、娯楽を取り上げる規制だった。
遊興はぜいたくであると断じた奢侈禁止令である。人情派の景元は、寄席と芝居の廃止は芸人の失業を生むと反論した。
その結果、水野と対立し、また水野の側近の策謀もあって、北町奉行を罷免される。景元の更迭に暗躍した水野の側近が、遠山の金さんのライバルとして悪評高い鳥居耀蔵である。
なお、のちに『遠山の金さん』が歌舞伎の演目として大人気を博すのは、このとき景元が芝居小屋の存続に尽力したことに、小屋の関係者が称賛・感謝の意を表した結果でもあったろう。
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