人違いでも「伝説」が広まったワケ

筆者は、入れ墨の噂は眉唾だと思う。

そもそも若い頃に放蕩の限りを尽くしていたという逸話さえ、真偽は怪しい。放蕩説は景元が吉原の遊女の罪を裁く際、同席していた遊郭の遣り手(遊女を管理・監督していた年配の女性)が遊び人だった若き日の景元の顔なじみで、「あら、金さん」と、白洲で声をかけたというエピソードが元になっている。

しかし、これは安永八年(一七七九)刊の随筆『はつか草』に、能勢頼一にまつわる裏話として載っている。能勢は延享元年(一七四四)に北町奉行に就いた男で、吉原の遊女たちを取り調べたとき、顔見知りだった能勢がお奉行様として現れたので、「誰かと思ったら甚さまじゃない」と、大笑いされたと記されている。

「甚さま」とは、能勢の通称「甚四郎」のことだ。

何のことはない、甚四郎と景元の通称「金四郎」が混同され、景元の逸話にすり替わっただけである。

こうした入れ墨に関する伝説は、すでに幕末にはフェイクとしてある程度は認識されていたようだ。しかし、明治時代に入ると、景元が再び注目を集めるようになった。原因を作ったのは、前述の木村芥舟だった。

木村は幕末の軍艦奉行であり、勝海舟と福沢諭吉が乗船したことで知られる咸臨丸の提督である。幕末の英傑の一人といって良い。

その木村が、とにかく景元を称賛しているのである。

「左衛門尉景元、天保十一年町奉行に任す。性闊達、明断の聞こえあり。この人、少かりし(若かりし)時遊蕩、常に無頼の徒と交わりし故、能く下情に通じ、市僧(諸国を托鉢修行する僧)博徒の事に至るまで諳んずる(知っている)所也」

将軍も認めた裁きの腕前

景元の裁きが明断なのは若い日の放蕩や、博徒といった無頼の徒らとの交流によって、世情に通じたところから来ている――だからこそ名奉行なのだと、手放しの褒めぶりだ。

勝や福沢にゆかりある人物がここまで絶賛しているのだから、遠山の金さんとは気さくで立派なお奉行様だったに違いないと、景元の人物像を伝説化するのにひと役買ったのではないか。著者には、そう見えるのである。

一方、三十三歳で幕政の表舞台に登場してからの躍進は目覚ましく、小普請・作事・勘定といった奉行職を歴任した。これらの役職は出世コースである。

四十八歳で江戸北町奉行に就任すると、これまで見てきた入れ墨などの曖昧な風聞と異なる、史実と見ても良い話を残している。

天保十二年(一八四一)の「公事上聴くじじょうちょう」だ。

これは将軍臨席のもとで模擬裁判を行ない、その評価を受けるというイベントだった。景元は養子縁組でもめている二組の夫婦の訴訟を見事に裁き、将軍から「(二組の)利害を調整した巧者」と、直々に“お褒めの詞”を賜ったという。

実は景元が実際に下した判例は、ほとんど残っていない。江戸幕府には『御仕置例類集』という裁判記録があるが、景元が北・南町奉行を務めていた時期のものは焼失してしまっているためである。『公事上聴』はシミュレーションとはいえ、景元が将軍から絶賛された貴重な裁判記録だ。

この他、北町奉行の職にいた初期の頃、ときの老中・水野忠邦みずのただくにに提出した意見書が確認できる。

水野忠邦像
水野忠邦像(首都大学東京図書情報センター所蔵水野家文書の一つ、椿椿山画)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons