優秀な父・景晋により飛躍した遠山家
三十三歳まで何をしていたかわからないゆえに、無頼の青年期を過ごし、若気の至りで入れ墨まで彫ったという人物像がひとり歩きしてしまったのだろう。だが、実は父親の景晋はとても優秀な人物だった。寛政六年(一七九四)、昌平坂学問所で実施された学問吟味で最優秀成績を収めたという記録がある。また、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行を歴任している。
特に長崎奉行を務めたことから外交能力に長けており、文化元年(一八〇四)にロシア外交官、ニコライ・レザノフが蝦夷地(北海道)に来航した際には、交渉役を担っている。
遠山家の家禄は五〇〇石。幕閣の中枢に就く家格ではなく、実際にそれまでの遠山家には幕府の要職に就く者がいなかった。だが、景晋以降は重用されるようになる。
息子の景元にも優れた資質はあったが、父親の七光も大きく、それによって地位も高まっていった。景晋は文政十二年(一八二九)、景元に家督を譲って隠居。天保八年(一八三七)に死去した。
桜吹雪ではなく女の生首という証言も
景元が身体に彫っていたという入れ墨については、文献にも記載されている。例えば一八四〇年代半ばに刊行された『浮世の有様』に、こうある。
「若い頃につき合っていた博打うちの影響で彫った入れ墨が見苦しかった」
景元が南町奉行を務めていた最後の二年だけ部下だった佐久間長敬も、回顧録『江戸町奉行事蹟問答』で「(景元は)入れ墨をしていた」と証言している。佐久間は幕末から維新にかけて奉行所の与力だった人物で、かつ一時は景元の身近な存在だっただけに、この証言は一定の信ぴょう性がある。
ただし、『浮世の有様』とほぼ同じ内容なので、当時流布していた噂を耳にして再録しただけ、という可能性も捨てきれない。
幕末の軍艦奉行・木村芥舟の随筆『黄梁一夢』にも、「腕に花紋を黥する(げいする=入れ墨があった)」――という一文がある。また、明治に入って流布した景元の伝記『帰雲子伝』も記す。
「芝居小屋で喧嘩騒ぎを起こした金四郎が腕まくりすると、女の生首の入れ墨があった」
ここでは入れ墨が桜吹雪ではなく女の生首にすり替わっているが、いずれにせよ佐久間の証言も含めて伝聞ばかりの可能性が高い。

