列強の空白期間が日本に与えた猶予
では、そのころ、他の大国はどうしていたのでしょうか。
先述の通り、アメリカは鎖国していた日本に1853年に一番乗りで乗り込んできました。このときペリー率いる黒船は、強大な艦隊と大砲を背景に、武力行使も辞さない姿勢を示して幕府に開国を迫ります。
もし日本がここで判断を誤り、アメリカに無謀な戦争を仕掛けていたら、インドや中国のように搾り取られ、土地を奪われていた可能性もあります。
しかし、オランダ経由で世界の情勢を事前に把握していた日本の幕府は無謀な開戦を避け、1854年に「日米和親条約」を締結するという平和的な解決を選ぶことができたのです。
さらに、この後、日本にとって決定的な「幸運」が訪れました。
1861年にアメリカ国内を二分する南北戦争が勃発したのです。アメリカは自国の内戦にかかりきりとなり、日本どころではなくなりました。
また幕末には、イギリスが薩摩・長州など西南雄藩との関係を深める一方、フランスは徳川幕府の軍事・産業近代化を積極的に支援しました。日本国内の政争の背後には、英仏の影響力競争も重なっていたのです。
ところが1870年、今度は欧州で「プロイセン・フランス戦争(ドイツ・フランス戦争)」が勃発します。フランスは本国での戦いで日本にまで手が回らなくなりました。
こうしてアメリカとフランスの対外的な余力が削がれたこの時期に、明治政府は一気に体制を固め、国のOSを「ちょんまげ(封建制)」から「散切り頭(近代国家)」へと書き換えることに成功したのです。
もし2つの戦争のタイミングがズレていたら、日本は列強の東アジア戦略に飲み込まれ、近代化どころではなくなっていたかもしれません。
この「列強の空白期間」が日本に与えたわずか10年ほどの猶予の間を日本は猛スピードで駆け抜けたのです。
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