過去をため込む日記・記録も書かない
もう一つ、僕は日記というものを、生まれてこのかた、書いたことがありません。記録の類も、残しません。モノだけでなく、過去そのものもため込まない流儀なのです。この流儀には最近、手痛いしっぺ返しがありました。
先日、日経新聞夕刊に自分のAPU時代を振り返る連載を持つことになったのですが(2026年1月〜26年6月まで)、いざ書き始めると、日付も数字も、確かめる手がかりが手元に何一つないので、我ながら、かなり苦労しながら書くことになりました。
それでも、後悔はしていません。記録の置き場まで空けてきたからこそ、80歳を目前にしたこの頭にいまも新しいものが入り続けているのだと思うからです。
貴重な時間を「今日」のために使う
さて、いま紹介した以外のことは、僕は一般的に終活と呼ばれるものは、ほぼしていません。理由は二つあります。
一つ目の理由としては、死んだ後のことは、原理的に、僕の問題ではないからです。僕の葬儀をどうするか、僕をどう偲ぶか、あるいは偲ばないか。それらはすべて、残された人たちが、残された人たちの都合と気持ちで決めることです。
僕が細かく指定するのは、いわば自分がいない会議の議事進行に、あらかじめ口を出すようなものです。死後の自分がどう扱われるかは、自分が決めることではない。残された人が決めることだと考えています。
二つ目の理由としては、終活の準備に使った時間は、今日を生きる時間から差し引かれるからです。人生の残り時間は誰にもわかりませんが、有限であることだけは確かです。その貴重な時間を、まだ来ていない「終わり」のために使うのか、確かに来ている「今日」のために使うのか。僕の答えは「今日」のためにと決まっています。
とはいえ、「これだけは決めておいたほうがよいのではないか」と思う例外が一つだけあります。それは、財産についてです。

