「七本槍が大活躍」は本当か
「七本槍」が功名を上げるまでの経緯をもう少し記すと、盛政にとっての想定外は、秀吉が岐阜から13里(52キロ)もの距離を、わずか5時間ほどで駆け抜け、本陣の木之本(滋賀県長浜市)に戻ってきたことだった。
4月21日、秀吉の部隊の猛追を受けた盛政の軍勢は、態勢を立て直したが、そのタイミングで後方にいた前田利家と利長父子、さらには金森長近と不破直光が戦線を離脱。前後から挟撃された盛政の部隊は壊滅したが、「七本槍」が手柄を立てたのはこのときだった。
勝家は周辺の部隊が総崩れになった挙句、本隊が秀吉の総攻撃を受け、多大な損失を出しながら北庄城に敗走。秀吉の軍勢に包囲された挙句、信長の妹で娶って間もない市とともに自害し、3000の城兵も討ち死にした。
さて、武功を立てた「賤ヶ岳の七本槍」とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元の7人を指す。ただし、「賤ヶ岳の七本槍」という表記が初出するのは、江戸初期に成立し、史料としての評価が高くない『甫庵太閤記』で、この7人の活躍については諸説あるのも事実である。
秀吉がことさら7人を称賛したワケ
実際に活躍したのは、石河兵助と桜井佐吉を加えた9人だったが、語呂が優先されて「七本槍」になったという説がある。「七本槍」はいわれるほど活躍していない、という見方もある。柴田方の軍勢はすでに突き崩されており、七本槍は勝利がほぼ決まった状況で追撃したにすぎない、というのだ。
それでも、秀吉はことさら7人(9人)の武功を賞賛して、感状をあたえるなどした。その背景には、この「天下分け目の戦い」の勝利後に向けた戦略があったと考えられる。
百姓出身の秀吉には、たとえば徳川家康などと違って譜代の家臣がいない。そこで、子飼いの若い小姓たちの活躍をアピールし、今後の羽柴家を支える家臣として、彼らに箔をつけたというわけだ。
これら7人のなかでは、賤ヶ岳合戦での戦功で5000石を加増された福島正則が、とくに高く評価されていた。一番首を取ったこともあり、まぎれもなく「七本槍」の筆頭というあつかいだった。「七本槍」を称揚したことに、前述のような秀吉の戦略があったなら、正則こそは秀吉の覚えがとりわけ目覚ましかった、ということになる。

