49万石から4万石まで転落
また、徳川幕府から見れば、正則は功労者ではあっても、豊臣家への忠誠心が人並み以上に強い、もっとも警戒すべき大名だった。その点も正則には悲劇だった。
だから、大坂の陣に際しては、幕府から最大限に警戒される。冬の陣も夏の陣も江戸留守居役に留め置かれ、従軍を望んでも許されなかった。その一方で、冬の陣に際しては、自身の大坂蔵屋敷に置いてあった兵糧米を、豊臣家が略奪することを認めており、徳川家が警戒するのも当然だった。
元和5年(1619)、広島城を無断で修復したことが武家諸法度に抵触するとして、領地を没収され、越後(新潟県)の魚沼の4万5000石へと大減俸される。2年前に洪水で破損した城の修復を幕府に願い出ていたのだが、なかなか許可が下りず、結果的に許可なしで城に手をつけたところが、いきなりの処分だった。
むろん、幕府は危険分子である正則の領地を、没収する機会をねらっていたのだろう。しかし、秀吉のお気に入りが、すなわち徳川幕府には危険分子であったとするなら、賤ヶ岳七本槍の筆頭として讃えられたことが、正則の晩年の悲劇につながったということもできる。

