秀吉恩顧の武将だったのに家康軍に
そもそも正則は、母がのちに大政所と呼ばれる秀吉の母の妹で、秀吉とはいとこの関係にあった。その縁で、幼少期から秀吉の陣営に加わったが、数少ない秀吉の血縁のひとりという意味でも、秀吉には重要だった。ただ、秀吉とは24歳の年の差があったので、むしろ甥のようにかわいがられたようだ。
正則はその後も合戦のたびに従軍した。翌年の小牧・長久手合戦を皮切りに、紀州攻略や四国征伐にも参戦し、天正15年(1587)の九州征伐後には、伊予(愛媛県)に11万3000石をあたえられ、ついに城持ちの大名にまで出世した。
その後も小田原征伐はもちろん、文禄元年(1592)の朝鮮出兵(文禄の役)では、五番隊の主将として京畿道を進軍しただけでなく、兵糧の輸送にも関わった。いったん帰国後、ふたたび渡海して戦功を挙げている。文禄4年(1595)のいわゆる秀次事件で、秀吉の甥の関白秀次が切腹したのちは、その遺領の尾張(愛知県西部)24万石をあたえられ、豊臣政権の重臣として、清洲城(清須市)を居城にした。
このように正則は終始一貫して秀吉に仕え、尽くし、実績を上げ、出世を遂げてきた。そもそも秀吉の血縁でもあり、羽柴家への忠誠心はだれよりも強かったとされる。ところが慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、家康が総大将の東軍にくみしている。なぜなのか。
石田三成が憎いばかりに
秀吉の死後、正則は石田三成と対立する。正則だけでなく、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、池田輝政といった武将たちがみな三成と対立し、三成を襲撃する事件まで起こした。簡単にいえば、実力や武功を重視する正則らは、法度や数字をもとに四角四面の査定をする三成とは、水と油のように相容れず、強い恨みをいだくようになったということだ。
だから、正則をはじめ秀吉恩顧の武将たちが、三成を失脚させた家康に心を許すようになっていった。
家康の上杉討伐に参戦していた正則は、三成が挙兵すると、いわゆる小山評定でいの一番に、家康に味方して三成を成敗すると誓約。その発言が諸将を家康のもとにまとめる契機になったとされる。要するに、三成が憎いあまり、三成を倒すことこそが豊臣家のためになると信じ、家康に味方することの危うさに気づかなかったのだろう。
合戦での戦功ももちろんのこと、小山評定での功を考えれば、正則は関ヶ原合戦の第一の功労者だった。このため戦後、安芸(広島県西部)と備後(同東部)に49万8000石を得て、全国でも有数の大大名になった。だが、豊臣家を思うあまり徳川政権樹立の功労者になり、結果として、豊臣家を追い詰めることになったのは皮肉であり、悲劇であった。

