勝敗を決めた、ある武将の油断

だが、膠着していた戦況が変化する。大きなきっかけは羽柴方の山路正国が、佐久間盛政の調略を受け、柴田方に寝返ったことだった。

太平記英勇伝二十一「佐久間玄蕃盛政」
太平記英勇伝二十一「佐久間玄蕃盛政」(写真=『柴田勝家』福井市歴史博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

一度は降伏した織田信孝がふたたび反旗を翻したため、秀吉は4月17日、2万の兵を率いて岐阜城に向けて出陣したが、同じタイミングで柴田方には、正国からの情報がもたらされた。

賤ヶ岳砦と大岩山砦を結ぶ第2の防衛ラインは、十分な防御態勢が取れておらず、背後では信孝などの動きにも脅かされている、というのが正国の情報だった。実際、偵察で確認すると、たしかに秀吉は木之本の本陣を発っていた。そこで佐久間盛政が、防御が薄い方面への攻撃を主張。勝家は、砦を攻撃してもその場に駐屯せず退却する、という条件で攻撃を許した。

ところが、盛政は大岩山砦を急襲すると、岩崎山砦も落とし、余呉湖一帯を制圧できたために慢心し、勝家の忠告を無視してそのまま駐屯。そこに、大岩山砦陥落の知らせを受けた秀吉が、岐阜城から52キロの距離をわずか5時間程度で駆け戻ったため、盛政の軍は不意を突かれ、その状況で前田利家らが戦線を離脱したため、盛政の軍は壊滅。勝家の本体周辺も総崩れになり、結果的に、玄蕃尾城を使う機会は訪れなかった。

盛政の油断がなければ、おそらく持久戦になっただろう。そうなれば、玄蕃尾城は難攻不落の城として、秀吉たちを悩ませたかもしれない。

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