勝家の砦と秀吉の砦の違い

また、羽柴方、柴田方それぞれの陣城や砦は、現在も余呉湖周辺に20程度残り、それなりに遺構が確認できるものが多い。それらを検討すると、両者の戦術がよく見える。

両陣営の砦を比較すると、羽柴方の砦は、防御や攻撃のための工夫が凝らされているのに対し、柴田方の砦は規模が小さめで、構造も比較的シンプルである。こうした違いは、どんな理由から生じているのだろうか。

滋賀県立大学名誉教授の中井均氏は〈これは南下して攻撃をしようとする勝家軍は兵の駐屯地としての陣城を構えたことに対して、迎え撃つ秀吉軍はこの防衛ラインを突破されないための巧妙な縄張りの陣城を構えたものと考えられる〉と書いている(『秀吉と家臣団の城』角川選書)。

実際、越前から一気に南下をはかる柴田勝家は、元来が山岳戦を得意としていた。だから山中に軍道を整備しつつ、山伝いに進軍し、途中に敵がいれば蹴散らす、という考えだっただろう。だから山中に築いた砦も、そこで敵の攻撃を防御する以上に、兵を駐屯させる場所として重要で、だからシンプルな構造でよしとしたのだろう。

一方、秀吉は迎え撃つ側で、元来が平地での持久戦に強い。だから、しっかり防御された砦による防衛ラインを二重に築き、進軍よりも防衛に力を入れたと思われる。実際、秀吉は時間をかけて敵を消耗させる戦いが得意中の得意なので、勝家に対しても、そういう戦いを想定していたことだろう。

すぐれた築城家としての一面

だが、両者の違いをこう説明してはみたが、まったく当てはまらない陣城がある。勝家が本陣を置いた内中尾山の玄蕃尾城である。

柴田方の砦は比較的小さく構造もシンプルだと書いたが、この城だけはまったく逆で、大規模なうえにきわめて凝っている。石垣こそ積まれていないが、土造りの城の到達点といえるほど本格的で、玄蕃尾城にくらべると、羽柴方の砦など、「防御や攻撃のための工夫が凝らされている」といったところで、オモチャみたいである。

考えられる理由は、1つは本拠地である越前から南下する際の中継地点として、あらかじめ整備されていた可能性である。もう1つは、進軍が敵わず、羽柴方の攻撃を受けることになっても、この城だけで持ちこたえられる拠点を構えた、ということではないだろうか。いずれにせよ、柴田勝家がすぐれた築城家であったこともわかる。

なにはともあれ、この玄蕃尾城を「攻めて」みよう。結局、賤ヶ岳合戦の際に戦場にならず、その後は使われずに廃城になったため、当時の城の構造が奇跡的なほどよく残っている。自動車で中腹まで行けば、徒歩15分程度で城の入口に到達できる。

まず南端の曲輪(郭1)が出迎えてくれる(曲輪とは城を構成する区画のこと)。南西側に虎口が二重に構えられ、その前は空堀で守られ、曲輪全体も空堀の外側も土塁で囲まれている。いきなり敵を寄せつけない鉄壁の防御を見せつけられる。空堀に架けられた土橋を渡ると隣の曲輪(虎口郭)で、その先に45メートル四方の主郭がある。

主郭南側の堀にかけられた土橋と、その先の虎口。
筆者撮影
主郭南側の堀にかけられた土橋と、その先の虎口。