相当の覚悟をもって「軍神」に斬り込んだ
『坂の上の雲』は時代を書こうとしている。その時代の栄光も、その後の破滅にいたる時代への萌芽も、書こうとしている。そのために乃木将軍は書かねばならない。テーマであり、書く以上は自分が納得できるものにしなければならない。
なるほど乃木将軍は人格的にはたしかに高潔でした。写真が好きでしたが、旅順陥落後の敗将、ステッセルとの会見写真はありません。会見後の、友人としての記念撮影ならあります。敗軍の将に対する武士の情がそこにあります。太平洋戦争でシンガポールが陥落したときの、山下奉文中将とパーシバル中将との写真を思い起こせば、ふたつの戦争の違いがわかります。日本人もまた変わっていく。
乃木将軍は神格化されました。赤穂浪士と同じように、浪花節、講談、琵琶などで、その死は美化された。いろいろあった軍国美談の中で最大のものでしたが、そこに司馬さんは本格的に斬り込んでいる。
軍神に祭り上げられる怖さを、だれにも文句がいえないような取材で書き込んでいます。殉死の不自然さを冷静に書いた「腹を切ること」を読めば、さらに司馬さんの覚悟がわかると思います。
このことは記憶してほしいですね。
世界とほとんど交流がなく、チョンマゲ姿に刀を二本差した侍が支配していた日本が、わずか3、40年で清国はおろか、大国ロシアを破る国になった。そこには、国家、民族、人間の面白さがありますが、恐ろしさもあります。乃木さんはその象徴的な存在でもありました。



