本拠へ戻ったとき、清須では会議が終わっていた

その準備が始まった瞬間に本能寺の変が起こってしまった。案の定、南から北条氏が国境へと殺到する。6月18日から19日にかけて、神流川で北条勢を迎え撃つも、大敗を喫した。

もう、こうなると支配は崩壊である。いや、持ち堪えていても武田旧臣たちがどう転ぶかわからない。上野を放棄した一益は、碓氷峠から木曽路を抜け、命からがら本拠・伊勢長島へと逃げ帰る。そのとき、清須では既に会議が終わっていた。

状況だけみると、一益が老いて能力を失った武将のようにみえる。それは違う。圧倒的に条件が悪すぎた。一益は、精一杯迎え撃ち、そして負けている。つまり、これは一益個人の力量の問題ではない。誰がこの持ち場に置かれても、同じ結末をたどった可能性が高い。むしろ、支配基盤を築こうとして送り込まれているあたり、並の武将であるはずがない。

ただ、一益の権威の失墜は、東国の所領を失い会議に間に合わなかったからではない。柴裕之『シリーズ・実像に迫る017 清須会議―秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版、2018年)によれば、そもそも秀吉は書状で一益に対後北条氏戦と勢力圏維持に専念することを求めており、会議への参加を想定していなかったとしている。

つまり、一益の本当のしくじりは、会議に間に合わなかったことではなく、帰還後の後処理にあったとみることができる。

清須会議では“優先度の低い存在”になっていたか

まず、東国の勢力圏を失ったのは、決して一益一人の責任ではない。ところが、この責任の所在がきちんと検証された形跡はない。秀吉であれ勝家であれ、あの状況を挽回するのは難しかっただろう。それでも一益だけが、完全に「戦犯」の烙印を押されてしまった。

しかも、酷いのはここからだ。秀吉は書状で、一益に後北条氏との戦いと勢力圏の維持を求めていた。ところが清須会議の所領分配では、その一益の取り分が議題にすら上がらなかった。結果、上野国を失った一益の手元に残ったのは、もともとの所領である北伊勢五郡のみとなった。

もっとも、柴によれば、このことを丹羽長秀から聞いた秀吉は、織田家の蔵入地から一益への加増を強く説いたとされる。だが、実際にはなんの対応もなされなかった。

推測するに、清須会議の時点で、秀吉にとって一益はもはや優先順位の低い相手になっていたのではないか。神流川で大敗し、東国の所領を失った一益には、勝家・長秀・恒興のような発言力が残っていなかった。加増を実現するには、他の宿老の取り分を削るか、蔵入地という織田家の共有財産に手を付けるかしかない。どちらも、まだ地位を固めきれていなかった秀吉にとっては、あえて火中の栗を拾ってまで、力を失った一益に義理立てする理由にはならなかったはずだ。

重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)
重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons