本能寺“後”にたどった転落の道
しかし、この信頼が、本能寺の変の後は裏目に出た。間に合わなかったとはいえ、柴田勝家は光秀を討つべく動いていた。徳川家康も、伊賀越えで帰還した後はすぐに兵を集めて出陣している。だが一益は、間に合わなかった。しかも、清須会議にすら間に合わなかった……。
その後は、転落の一途である。賤ヶ岳の戦いでは勝家に与して降伏し、所領を没収。その後は蟄居していたが、茶人や関東の諸大名との人脈があったことから秀吉に呼び戻された。しかし、ここでも復活することはできなかった。
小牧・長久手の戦いでは秀吉に与し、蟹江城(愛知県)を調略することに成功する。ところが、家康と信雄の反撃で城を奪還され敗走することになってしまった。
その後、秀吉との約定により、自身は3000石、次男の一時は1万2000石を得たとされるが、嫡男の一忠は敗戦の責を負って追放されることに。家名が残ったとはいえ、織田政権の重臣としては、かなり零落した末路だったといえるだろう。その後、一時の家系が旗本として江戸時代に続いたのが、唯一の慰めというべきか。
着任を祝う使者を送られるほど
いったい、なんでこんな悲惨な結果に終わってしまったのか。
答えは単純だ。一益が、有能すぎたのである。
伊藤一美「上野国における滝川一益の位置について」(『戦国史研究』20号、1990年)は、一益が畿内の茶人仲間に宛てた手紙などをもとに、その支配の実情を分析している。伊藤はここで、一益の上野着任が周囲からどう見られていたかを記している。
会津の芦名氏という、上野からすればかなり遠方の東北大名までもが、一益の着任をわざわざ祝う使者を送ってきている。周辺勢力の目に、一益の上野入りは単なる一武将の赴任ではなく、東国全体の秩序が定まる号砲として映っていたのである。
ところが、当の一益はこの任務がまったくの重荷になっていた。伊藤は「当時すでに五十八才を迎えていた一益にとってはかなりの仕事であったのではないか」としている。

