ヒグマの巨体がネコのように跳ねた

ヒグマは来た道を、どんどん引き返している。私は内心、朝の2、3時間で決着がつくだろうとタカをくくっていたが、そう簡単にはいかなかった。

目の前の林を凝視しながら、車の中で黙々と握り飯を食べる。

待ちの配置は、約30メートル間隔で5人。このどこかに、必ずヒグマが出てくるはずだ。

「来たぞ!」

誰かの怒号と同時に、ヒグマがトドマツの陰から炸裂するように飛び出した。全身の体毛を逆立て、怒気をまとった巨体は、朝に見たときよりひと回り大きく感じられる。

銃を構える暇もない。ヒグマは現れた方角とは逆側の藪へ、一閃する影となって消えた。まるで巨大なネコが跳ねるようなしなやかさだった。

このまま直進すれば忠類川に突き当たる。下流へはいくまい。奴は必ず上流を選ぶ。「川沿いをいくぞ」。赤石は次の展開を読み続ける。

やがて河原に構えた仲間から「羆、いたぞ」との報が入る。

いずれ川幅が狭まり、逃げ道は限られてくるはずだった。だが、上流に布陣しているはずの「待ち」からの連絡は一向にない。無線は沈黙を保ったままだ。

小さな違和感。

赤石は悟る。ヒグマは待ちの死角――崖下の陰――をうまく抜けたに違いない。

北海道ヒグマの血まみれの歯
写真=iStock.com/petesphotography
※写真はイメージです

上流側の気配を察したのか、ヒグマは河原を離れ、切り立った崖を駆け上がる。そして牧草地の裂け目に沿って延びる細長い藪へ身を滑り込ませる。その先には、トドマツの深い林帯が広がっていた。ヒグマはそこを知っているかのようだった。

「来たぞ!」

響き渡るヒグマの咆哮

川沿いの藪を見張っていた待ちの目の前を、ヒグマが猛スピードで駆け抜けていく。車から約200メートルの位置だ。こんなときに限って、そこに赤石はいない。赤石は自分の直感で「ここだ」と読んだ別のポジションでヒグマを待ち伏せていたからだ。

走るヒグマに向かって、待ちの誰かが一発撃つ。

当たったか――しかしヒグマは止まらない。猛スピードのまま幅約200メートル、長さ600メートルほどのアカエゾマツ林の中へ飛び込んでいった。

この林が最後の決戦の場になりそうだった。

そこに関本知春がやってきた。関本は札幌からシカ撃ちに来ていたが、この「大捕物」の噂を聞きつけて、現場に駆けつけたのである。

関本を含む全員で林を取り囲む。もはやヒグマに逃げ道はないはずだ。とはいえ追い詰められたヒグマが、どの方向に飛び出してくるかは誰にもわからない。

これまでの動きを見れば、おそらくヒグマは来た方向――つまり、人間の背後――に戻ろうとするだろう。それを見越して全員が配置についた。

ヒグマが入っていった付近には関本と、崖の上に待ちが2人。見通しのきく牧草地側には赤石と実弟の喜八郎、私を含めた5人が構え、ハンター総勢8人がヒグマの動向を凝視している。

勢子の小野田が、ヒグマの向かった方向から林の中へ入っていく。ほどなくして、かつて誰も聞いたことのない咆哮があたり一面に響き渡った。

「グウォーーーーーッ!」

ヒグマがついに逃げ場を失い、たまらず吠え立てたのだ。咆哮は5度、地を震わせるように続いた。

「すげえ声だ……」

誰かが低くつぶやく。赤石でさえ、これほどの咆哮を耳にしたことはなかった。