子孫が軍師イメージを強調した
山崎の戦いに勝利した秀吉軍は、明智方の勝竜寺城を包囲した。だが、命を捨てる覚悟の明智勢を相手に力攻めをすれば、味方の犠牲は避けられない。そこで官兵衛は「今夜一方の攻口をあけ候はば、士卒大半落失申すべし」と献策した。完全包囲すると敵が死に物狂いで抗戦するので、あえて逃げ道を作っておけというのである。策は当たり、明智方の城兵は逃亡した(『黒田家譜』)。わざと包囲網の一角に穴を開けておくという戦術は、中国の兵法書に見られる典型的なそれであり、作り話と見るべきであろう。
そもそも、上の逸話は使い回しである。5年前の天正5年10月、秀吉が上月城の赤松政範を討つべく姫路城に入った。11月、官兵衛は上月城の出城の一つ、佐用城(福原城)を攻めた。『黒田家譜』は「孝高の謀にて夜中に三方を囲み、後一方をあけて攻給ふ。是孫子が所謂「囲師必闕」と云ふ軍法なり」と記す。官兵衛が孫子の兵法を活用して、わざと城兵の逃げ道を作ったというパターンが繰り返されている。官兵衛の「軍師」イメージを強調するための『黒田家譜』の作為と言わざるを得ない。



