「中国大返し」での官兵衛の諫言

周知のように羽柴秀吉は毛利氏とただちに和議を結び、いわゆる「中国大返し」を敢行する。その折、秀吉や家臣たちは居城の姫路城で一泊しようとしたが、官兵衛はいさめた。「姫路へ立ち寄れば、兵卒たちは自宅に帰り、妻子のことが気にかかり、勇気を奮い立たせることができません。その上、ちょっとした旅でも、家を出発するのは遅くなるものです。まして長い在陣をようやく終えた今、一度家に戻った後で敵陣に向かっていけるでしょうか。明智に味方する者が増える前に、一刻も早く京に戻り、明智と戦うべきです」というのだ。

秀吉は官兵衛の諫言かんげんれて、姫路の城下を通過した。官兵衛は使者を姫路に先行させ、かゆを用意させておき、秀吉軍が城下を通過する際に食事ができるようにした(「黒田家譜』巻2)。なお、姫路通過の逸話は『常山紀談』など以後の逸話集にも継承され、人口に膾炙かいしゃした。しかし一次史料によれば、秀吉は中国大返しの際、姫路城に滞在しており、姫路通過の逸話は創作である。

桜門橋、姫路城
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「秀吉が激賞した偽装工作」

中国大返しにおける官兵衛の策は、右に留まらない。小早川隆景から旗20本、宇喜多秀家から旗10本を借りて、毛利・宇喜多勢が秀吉軍に加わっているように偽装した。『黒田家譜』によれば、「弓矢ははかりごとにて勝ものなり…(中略)…官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶ所にあらず」と秀吉は激賞したという。

そして明智光秀との決戦である山崎やまざきの戦いにおいて、官兵衛は秀吉の側に控えていたという。すなわち、『川角太閤記』巻1には「御旗本は御小性(著者註:姓)衆・御馬廻り・蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛、さて其外の衆中なり」とある。同書に見える官兵衛は、まさしく帷幄いあく(編集部註:作戦本部)に侍る「軍師」の姿であろう。しかし一次史料によれば、黒田官兵衛は羽柴秀長の部隊に属しており、秀吉の傍らにいた形跡は確認できない。