江戸中期、幕末の本の描き方
江戸中期の逸話集『明良洪範』続篇巻5では、本能寺の変の報に接した官兵衛が秀吉の膝元に近づいて膝を叩き笑い、「天のご加護を得られましたな。もはやお心のままになりますぞ」と述べたという。
「ご運がひらけましたぞ」というセリフに最も近い表現が見える文献は、幕末維新期に岡谷繁実が編纂した『名将言行録』である。同書によれば、官兵衛が秀吉を「君の御運開かせ給ふべき始めぞ、能くせさせ給へ」と鼓舞したという。以後、秀吉が官兵衛に心を許さなかったとも記されている。『明良洪範』には秀吉が官兵衛を警戒したという一文はないが、『明良洪範』の記述を、岡谷が自分なりにアレンジした可能性が考えられる。
なお福本日南『黒田如水』(1911年)や金子堅太郎『黒田如水伝』(1916年)などの伝記類には、この逸話に関する記載はない。後世の創作と疑われたのだろう。
菊池寛の小説『日本武将譚』(1936年)所収の「黒田如水」では「家来がカミソリの様に切れるのはよいが、家来からあまり自分の図星を指されるのは、よい気持のものでない。本能寺兇変の飛報を手にして(君の御運開かせられる時ぞ。よくせさせ給へ!)と膝を叩かれたんでは、如何なる秀吉でも(あんまり本当のことを言ふなよ)である」と叙述されている。菊池の典拠は『名将言行録』と見て間違いない。
秀吉はかえって官兵衛を恐れた?
おそらくこの逸話が有名になったのは、海音寺潮五郎の小説「黒田如水」が発端だろう。海音寺が昭和34年1月から35年12月にかけて『オール讀物』誌上で連載した「武将列伝」の中の一編である。以下に該当箇所を引用しよう。
「老人雑話」ではこう説く。
官兵衛はするするといざりよって、秀吉の膝をほとほとたたき、にこりと笑って言った。
「ご運のひらけさせ給うべき時が来たのでござる。よくせさせ給え」
(中略)
秀吉はうなずいたが、こちらの心中の機微を苦もなく見ぬいた官兵衛の鋭さと、こんな時に早くも感傷をふり捨てて開運の好機到来と見る根性のたくましさにおどろき、油断のならぬ人物と見るようになったと伝える。
海音寺の叙述もまた、『名将言行録』の表現を踏まえていると思われるが、典拠は『老人雑話』としている。これが勘違いであることは前述の通りだ。
『川角太閤記』や『黒田家譜』では、黒田官兵衛は緊急時に主君に対して適切な助言を行う名補佐役として描かれている。しかし『名将言行録』では、主君が恐れるほどの底知れぬ智謀を持った油断ならない奸雄として造形されており、脚色が一層進んだ印象を受ける。このイメージを広く流布したのが、海音寺の小説と位置付けられる。野心に満ちた食えない策士という現代の官兵衛イメージの源流はここに求められよう。


