寺から譲り受け、戦の陣中にも帯同
そんななか、一揆勢に追い詰められた家康は、難を逃れるために身を寄せた明眼寺(現在は妙源寺)で、一揆の平定を一心に祈願しました。
結果として、泥沼化していた一揆側との和睦に成功。家康は、東三河のリーダーとしての地位を確立し、最強と評される武士団を率いて天下統一への道を歩むことになります。まさにピンチをチャンスに変えた出来事だったわけですが、この明眼寺の本尊が、のちに黒本尊と呼ばれることになる阿弥陀如来立像でした。
もちろん、家康も祈っていただけではなく、一揆側に提示した和議の条件を一転して反故にするなど、ぎりぎりの対応の連続だったようです。
しかし終わってみれば、手強い宗教勢力の影響力を排除することに成功し、岡崎城下において失われた求心力を回復しています。まことに見事な危機対応というべきで、家康の巧みな政治力を物語っていますが、当の家康は、みずからの窮地を救ってくれた明眼寺の本尊(黒本尊)に深い帰依の念を抱いたといわれています。
そして、明眼寺の住職に一筆をしたため、寺領を寄進するとともに本尊像の譲渡を懇望。ついに本像は家康の元に渡ることになります。以後、家康は岡崎城内に持仏堂を造り、黒本尊を奉安。のちには戦の陣中にも帯同し、祈りを欠かさなかったそうです。
武田の刺客による暗殺を寸前で防ぐ?
こんな伝説が残っています。
宿敵・武田勝頼が、配下の小童(少年)を刺客として家康のもとに潜入させたときのこと。ある夜、家康が寝所でまどろんでいたところ、黒本尊が枕元に立ち、「なぜ日課の勤行を欠いてしまったか。今宵危急の難があるからすぐにわれの前に来て念仏せよ」と家康に告げました。
家康ははっと飛び起きて仏間に入り、数珠をつまぐり低い声で念仏を唱えていると、何者かが家康の寝床で刀を抜き、布団にまたがって渾身の力で刀を突き立てました。しかし手ごたえはなく、刺客が周囲をうかがっていると、家康の声を聞いた宿直が駆け込んできて小童を捕縛しました。ところが神君(家康)は、主君のために命を賭した小童の志を讃え、斬り捨てることなく少年を勝頼のもとに帰すよう命じたのでした。
みずからの命を救ってくれたのが阿弥陀仏であればこそ、家康はその仏恩と引き換えに少年の命を差し出すことはできなかったのでしょう。

