本当に初対面で勝海舟を斬るつもりだった?

龍馬が、土佐、薩摩、長州、幕府その他、さまざまな勢力の人々と幅広く関わっていたことは事実だ。土佐藩の郷士の子に生まれた龍馬は、江戸に剣術修業に来たところでペリー来航直後の幕府の混乱を目の当たりにする。

一度土佐に戻って親類の武市半平太(武市瑞山ずいざん)が結成した土佐勤王党に関わるが、剣術修業の名目で再び江戸に向かい、実質的な脱藩者となりながら、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作ら勤皇の志士たちと知り合う。

幕府内で開国派の有力者だった勝海舟を斬るつもりで訪ねたところ、海外情勢をじっくりと聞かされ、考えを改めて勝に弟子入りしたというエピソードは、勝自身も書き残している。実際には、このときは松平春嶽の仲介を受けた正式な訪問だった。勝は自分の体験をおもしろおかしく盛る人物だったらしいので、実際はもっと穏当な面会だった可能性も高い。

暗殺犯はいまも謎に包まれたまま

勝のもとで操船を学んだのち、龍馬は、先に触れた大久保一翁や横井小楠、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)、薩摩藩の西郷隆盛らと親交を結ぶ。日本初の貿易商社といわれる亀山社中を結成し、長州藩のための武器調達などもこなした。

土佐藩が薩摩藩との連携を進めると、龍馬の活動は藩から公認される。かつて土佐勤王党と敵対した後藤象二郎、乾退助(板垣退助)らとも協力関係を結び、亀山社中は藩の支援を受けた海援隊へと発展。倒幕の動きが活発になり、幕府が大政奉還を行った直後の1867年11月15日、新時代の明治を見ないまま、龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺される。下手人は幕府に属する京都見廻組とされるが、諸説あって定かではない。