アートの価値は「美しさ」では決まらない

下の絵はもしかしたらご覧になったことがあるかもしれません。そう、あの有名なゴッホの自画像です。授業でこの問題を出すと、ゴッホの自画像には高い金額がつくのですが、上の絵はほとんど値がつかず、半分くらい「0円」という回答もあります。

しかし、実はこの2つの絵のうち、高いのは上の絵のほうです。アメリカの画家バーネット・ニューマンの『ブラックファイアⅠ』という絵なのですが、その価格はなんと8420万ドル(約134億円)、ゴッホの自画像の7150万ドルよりも高価です。白黒の簡単な絵になぜそれほどの価値がつくのでしょうか。

アートの価値は一般的に思われているように「美しさ」では決まりません。高い値段を出して買うわけですから、なにかよさがあるはずですが、必ずしも「美しい」ものが高いわけではないのです。

これは実はとても不思議なことです。美しいものが高いなら合理性があります。人は美しいものをみると快を感じるからです。より気持ちいいものが高い、というならその価値は分かりやすいですよね。

もう一つ、一般的に信じられているアートの価値に「技量」があります。絵がうまい、歌がうまい、演奏がうまい、などなど。「技量」というように、それは「量」として換算し、比較しやすいものでもあります。

(もちろん生得的な才能はありますが)技量は努力や練習で磨き上げられるので、その度合いだけ価値が高い、というわけです。それゆえ「技量」は「かけられた時間」で価値を測る考え方にも通じます。

日本人は特にその傾向が強いようで、ほとんどの人が、5分でつくられた作品より、10年かけてつくられた作品のほうが「高くてしかるべき」だと思うでしょう。

AIを使ってつくられた作品の価値を人がなかなか認めたくないのも、努力して積み上げられた「技量」や制作に注がれた時間がすくないことへの拒否反応だと言えます。

「美しい作品」が並ぶ中で「小便器」を展示

しかしアートの価値は「制作や技術のための努力や時間」とも比例しません。

アートの価値が「美しさ」や「技量」では測れないということを証明するには、マルセル・デュシャンの『泉』をあげるだけで十分でしょう。

この作品は、1917年にニューヨークで開催された「ニューヨーク・アンデパンダン」展のために制作されたものです。「アンデパンダン=indpendant」という名称が示すように、この展覧会は「出品料を支払えば無審査で誰でも出品できる」というルールでした。

美術館や権威者による審査で作品が選ばれる展覧会の向こうを張って、「なんでもありでいこうぜ」というわけです。

この展覧会に、マルセル・デュシャンは、磁器製の男性用小便器を横に倒し、“R. Mutt”という署名をして『泉』というタイトルを付け、アート作品として出品しました。ところが、無審査のはずのアンデパンダン展に、『泉』は展示許可されませんでした。

デュシャンはこの拒絶に腹を立てて同展覧会の実行委員長を辞任し、『泉』も行方不明となってしまいますが、それでも20世紀を代表するアートとして歴史に名を残しています。

「なんでもあり」のはずの展覧会において委員会が『泉』を拒絶した理由は、それが「美しさ」や「技量」という、旧来のアートの価値観に反していたからでしょう。

「美しい作品」が並ぶべき展覧会で「小便器」という「美」とかけ離れたものをアート作品として展示する行為自体、かなり挑発的なものです。