「技量」も「努力」も「時間」もかけない作品
そして『泉』は「技量」をも否定しています。『泉』よりも前のデュシャンの作品に、『ボトルラック』(1914)という作品があります。この文字どおりボトルラックを置いただけの作品で、デュシャンは「レディメイド」という手法を提示しました。
「レディメイド」はその意味のとおり「もともとつくられているもの」ということです。
デュシャンは「私はなにもしていない」とよく言いましたが、自分で彫刻したり制作をするわけではなく、食器を載せるラックやスコップをあたかも彫刻作品のように展示して「アートだ」と宣言したのです。
これらの作品において、デュシャンは「技量」も「努力」も「時間」もかけてはいません。どこかにあったものをもってきて置いて、「アートだ」と言うだけ。
アートをつくるために技量を磨き努力している人にとって、その行為は許せないほど腹立たしいものだったかもしません。
昨今、絵画や小説、漫画などのコンテストでAIで「生成」された作品が賞を受賞して物議を醸し、そのうちのいくつかは受賞が撤回される騒ぎになっていますが、デュシャンのレディメイドも当時、現代のAI作品に匹敵する拒絶反応を引き起こしたことでしょう。
デュシャンは「反藝術」や「非藝術」を標榜しアート業界を挑発したかなりの「ひねくれもの」ではあるので、「そんなやつが言ってもアートとは認めん!」と言う方もいるかもしれません。しかし、デュシャンの作品はまちがいなく20世紀を代表するアートとして高く価値づけられています。
「ちがいが価値で、おなじは悪」
2018年に『マルセル・デュシャンと日本美術』という企画展が大変な好評を博しました。「レディメイド」はデュシャンだけでなく、日本の「茶」における「見立て」などにもみることができます。
千利休は花入れをつくらず、魚を入れる籠や瓢箪を花入れとして使いましたが、千利休に対して「ずるい!」とか「アートとは認めん!」と目くじらを立てる人はあまりいないでしょう。
「美しさ」や「気持ちよさ」でも「技量」や「努力」でもないなら、なにがアートの価値を決めるのでしょうか? デュシャンの『泉』や「レディメイド」は他の作品が暗黙のうちに従っている「常識」を疑い、過去の作品とはまったくちがう作品のあり方を提示しました。
アートの価値とはこの「ちがい」なのです。
逆にアートはどれだけ美しくとも、どれだけすぐれた技量があっても、他の作品と「おなじ」では価値が低いのです。それどころかもし、まったくおなじ作品をつくったら「パクリ」と言われてしまいます。
そう、「工場」パラダイムとはまったく反対に、「アート」パラダイムでは「ちがいが価値で、おなじは悪」なのです。


