浅井・朝倉の7000騎に城を囲まれたが…
人質とはいうが、万丸の扱いはよかった。近年、歴史学者・堀越祐一が天正9年(1581年)5月付の文書に署判された「宮部次兵衛尉吉継」を秀次に比定する説を唱えた(堀越祐一「第2部『太閤・関白体制』期における政治権力構造(文禄期における豊臣蔵入地―関白秀次蔵入地を中心に/秀次事件をめぐる諸問題)」『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年)。
「吉継」という名は秀吉の「吉」と継潤の「継」から一字ずつ取ったものであり、万丸はそのまま継潤の養嗣子として元服し、天正9年の時点でもなお宮部家の一員として独自の家臣団を編成できる立場にあったというのだ。これは、時代考証を担当する歴史学者・黒田基樹の支持もあり、万丸は単なる「人質」ではなく、継潤の後継者として育てられていた……というのが、現在有力な見方である。ここからは、継潤が破格の扱いを受けていたことがわかる。
ともあれ、継潤が帰順したことで戦況が大きく変わったのは間違いない。なにしろ、宮部城は小谷城を包囲するための南側の最後の関門といえる要衝。ここから小谷城まで進軍を阻むものはない。
そのため、裏切りに気付いた浅井勢は全力で奪還に取りかかっている。
備前守長政義景と相談して被レ申けるは宮部世上坊か楯籠る宮部の要害は普請あらく敷して無勢なれは是を一責攻へしとて浅井長政侍大将には同姓七郎大野木土佐守朝倉義景侍大将には同姓式部大夫なり義景長政双方の勢七千余騎にて討て出ける(近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)
抄訳:浅井長政は朝倉義景と相談して、次のように語った。「宮部継潤が立てこもっている宮部城は、まだ急造の普請(工事)も不十分で、兵数も少ない。今のうちに一気に攻め潰すべきだ」こうして、浅井方の侍大将には一族の大野木土佐守、朝倉方の侍大将には同じく一族の朝倉式部大輔を任じ、両軍合わせた七千余騎の大軍で討って出たのである。
「信頼に値する男」秀吉の最側近から“神様”に
長政はめっちゃ焦っている。「一責攻へし」すなわち「今のうちなら」と言い出しているあたり「いや、どうにかしないと完全に終わる」とわかっていたのだろう。
信長にとってもこれは、対浅井・朝倉戦のターニングポイントであった。いくら比叡山を焼き討ちし、北近江の城を次々と落としても、宮部城を取らなければ堅城・小谷城の攻略は見通せない。攻めあぐねれば、足利義昭の御内書一枚で各地の大名が反信長に動き出しかねない状況だ。藤吉郎には「次々寝返らせろ」と威勢よく命じた信長だが、継潤の調略が成功したと聞いて、内心一番ホッとしたのは信長その人であっただろう。
ホッと胸をなで下ろす信長、本気でヤバイと落城が脳裏に浮かぶ浅井・朝倉……さまざまな思惑が交錯していたのは想像に難くない。
こうして見ると、継潤という男を「土壇場で浅井を裏切ったとんでもない野郎」と見るのは正しくない。この後に継潤は、秀吉に従軍、破格の待遇で遇せられ、最側近として但馬・因幡の統治を任されるに至っている。豊岡では民への負担を軽減したことで、今でも桜の名所として知られる御霊神社に神として祀られている。
単なる裏切り者であれば、さすがに神様にまではなることはできないだろう。つまり、継潤は成り行き上は裏切ったけれども、信頼に値する男だったというわけだろう。


