調略時点では城館、「城」ではなかった

そもそも継潤は、浅井家に代々仕えてきた譜代の忠臣ではない。近江の土豪の出身で、比叡山で僧となり、山を下りて宮部村に根を張った地域の実力者だ。浅井に仕えたのも、いわば地縁による成り行きに近い。

しかも「宮部城の調略」などと物々しく言っているが、実態はもっと素朴なものだった。なにしろ史料を見ると、調略の時点では宮部城はまだ「城」ですらなかったのだ。

信長は九月三日を以て直に工事を起さしめ、特に宮部城には、佐久間信盛を遣して之を修築せしめたり。……宮部城は善祥坊(継潤)の第館に過ぎざりしが、今や新に城濠を穿ち、五百川の水を引きて之に湛へ、以て要害を堅にせり。……信長は独り……宮部に至るまで新に軍道を開き、以て其出入往来に便ぜり(『東浅井郡志』2巻 日本資料刊行会、1975年)

抄訳:信長は九月三日から直ちに(虎御前山城の)工事を開始させ、特に宮部城には、重臣の佐久間信盛を派遣して修築にあたらせた。……もともと宮部城は、宮部継潤(善祥坊)の城館に過ぎないものであったが、今や新たに城の堀を深く掘り、五百川の水を引き入れて堀を満たし、防御を固めた要塞とした。……さらに信長は自ら(の指示で)、……宮部城に至るまでの新しい軍道(兵員輸送用の専用道路)を切り開き、兵の出入りや往来がスムーズにできるようにした。

つまり、調略した時点では城ですらなく単なる城館に毛が生えたようなもの。その後にようやく城らしくする工事が行われている。『東浅井郡志』には、この城の図面が掲載されているが完成図ですらシンプルな城。となると、それ以前は本当に土塁や柵、浅い堀がある程度だったのだろう。それですら確保しなければならない脅威になるあたり、この時代の戦がどういうものだったかを教えてくれる。

継潤は“秀吉の本気”を見たはずだ

わかるだろうか。浅井にあったのは、根拠のない自信だ。「あの継潤というヤツ、比叡山で僧兵をやっていた。ああいう男は義理堅い。まさか裏切るまい。あそこでドーンと構えていてくれれば、織田も攻めあぐねるだろう」そんな計算をしていたのではないか。

だが継潤の思惑は、まったく別のところにあった。

「いや、確かに比叡山にはいましたよ。でもそれは昔の話で、いまの私は宮部村の土豪なんですが。村の衆の生活に責任があるんですが。浅井様への忠義より、目の前の民をどう食わせるかの方が大事なんですが……」

琵琶湖から見た比叡山
琵琶湖から見た比叡山(写真=Rock.jazz.cafe/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

そこへ秀吉が交渉に来た。最初の交渉である。舐められてはいけない。継潤は強気の条件を出した。「お前の子を人質に差し出せ」と。

困った顔をして帰っていった秀吉が、しばらくして戻ってきた。子供を連れて。

「え、子供がいないから……甥っ子を連れてきた?」

継潤は、この男の本気を見たはずだ。そして、こいつについていけば間違いないと即断したのだろう。