「金額の大きさ」の問題ではない
終身雇用が崩壊し、「看板」を失った私たちに残されたのは、剝き出しの「年収」という指標だけです。しかし、SNSで繰り返される「奢り・奢られ論争」の本質は、実は金額の多寡にはありません。
女性にとっての「奢られ」は、自分の価値を確認するための「特別扱いの証」へと変質しました。
かつての「選ばれた証(承認)」は、この不透明な時代において、自分を優先してくれるかという「特別」の確認へと重みを増したのです。
「女性はコスメや服に投資し、準備コストをかけている。だからこそ食事代くらいは奢ってほしい」――。
この主張の裏にあるのは実利への執着ではありません。
「そこまでして準備した私を、あなたはどれほど大切に扱ってくれるのか」という、切実な感情の測定なのです。
一方で、男性側にも言い分はあります。現代のデートでは男性にも高い「清潔感」が求められ、美容院やスキンケア、服装への投資、さらには店選びのリサーチといった目に見えないコストを、彼らもまた等しく支払っています。
「自分もこれだけ準備したのだから、食事くらいは対等(割り勘)にしたい」。
そんな男性側の切実な論理と、女性側の特別扱いへの渇望が、レジ前で正面衝突しているのです。
だからこそ、男性が放つ「じゃあ、2000円だけちょうだい」という言葉は、致命的な失望を呼ぶのです。
自分との時間は処理すべき「コスト」なのか
数千円が払えないわけではない。
ただ、その回収しようとする姿勢に、自分との時間を「共同の楽しみ」ではなく「割り勘にすべきコスト」として事務的に処理された冷たさを感じてしまうからです。
SNSの「奢られなかった」という嘆きは、お金への不満ではなく、「私は、数千円すら譲ってもらえない程度の存在なのか」という、大切にされなかった悲しみの吐露なのです。
ここで一つ、極端な例をあげます。
年収1000万の男性が割り勘を提示し、年収300万の男性が奢ってくれたとします。後者の場合、女性の感情は「無理をしてまで大切にしてくれた」という喜びで満たされるでしょう。
しかし、いざ「結婚」という現実を前にした時、女性たちは立ち止まります。
「誠意はあるがお金がない」相手か、「お金はあるが誠意(献身の意志)がない」相手か。
もちろん、奢るという所作だけで誠意のすべてを測ることはできません。しかし、このレジ前の振る舞いを通じて、私たちは「生存能力」と「献身の意志」のどちらかが欠落しているという、残酷な現実を突きつけられてしまうのです。

