頑なに受け取らずにいた「困った財産」
実際、八雲の辞職を聞きつけたアメリカのコーネル大学は、一期5000円の報酬で講演を依頼。さらにスタンフォード大学などからも依頼があった。しかし、コーネル大学でチフスが流行したことで講演は延期に、そうこうしているうちに八雲も病気をしてしまい、訪問は叶わなかった。このほか、死の数カ月前にはロンドン大学からも講演依頼があり、オックスフォード大学からも同様の打診があった。実に諸外国では日本を知る手がかりとして八雲を欲していたのである。
そうしているうちに、セツの親戚である梅謙次郎(日本民法を整備した法学者、妻がセツの従姉妹)が推薦してくれて、早稲田大学で授業を持つことになった。この講義が始まったのは1904年4月、死去までわずか5カ月足らずの出来事であった。しかし、その俸給は一週に4時間で年に2000円というものだった。東京帝国大学に比べるとだいぶ収入は減ったが、授業時間が少なく、加えて周りの人間関係も良好だった。なにより、このような金額で講義を引き受けても苦にならなかったあたり、印税により生活は安定していたとみていいだろう。
こうして蓄財に加え、八雲の印税、さらにセツ名義の家屋敷と生活には困らないものを残してくれた八雲だが、中には困った財産もあった。それは、八雲が日本に来るきっかけとなり、決裂したハーパーズ・マンスリー・マガジンに絡むものだった。
日本に到着した後、同行していた挿絵画家のほうが自分より高額な報酬を得ていることに怒って契約を破棄した八雲だが、既にハーパーズ・マンスリー・マガジンからは数冊の著作を出していた。ハーパーズ・マンスリー・マガジンは契約を破棄された後も、律儀にその印税を八雲に渡そうとしたのだが、八雲は頑として受け取らなかった。
放置された株券が「母子悶着のタネ」に
困った同社は領事館を通じて、八雲の友人であるミッチェル・マクドナルドに送金し、それを八雲に渡すように頼んでいた。しかし、それでも八雲は受け取らない。
そこでマクドナルドは、自分が経営に参画している横浜のグランドホテルの株を八雲の名義で購入することにした。その後、八雲がハーパーズ・マンスリー・マガジンと和解したことで、八雲は株券を受けとったのだが家族のために金には執着する一方で、株や投資に興味を示さなかった八雲は放置したままであった。
この保管されたままの株のことを一雄が知ったのは、関東大震災でマクドナルドが死去した後のことである。しかも、株は自分名義になっており、株数も増えていた。
ところが、これがセツと一雄の悶着のタネになった。
一雄がこの株のことを知る前に、セツは銀行から融資を受けて大久保の土地に借家を建てたり、屋敷の改築をしていた。そればかりか、一雄には大宮に土地を買い、家を建てるように命じていた。融資の保証人は一雄である。このことを、一雄はこうこぼしている。

