セツが遺した「相当額の借財」

一雄もさすがに、家族の手前があるのか言葉を選んでいるのか、ようは「いや、別に前から知っていて嫌いじゃないけど……母が急に気に入って押しつけるようにするので結婚したんですよ」ということである。もう、独断専行。反対されたら、前述(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)のようにヒステリーを起こして首を吊ろうとしたりするセツに一雄がほとほと疲れ果て、すべてを諦観していることを示すものだろう。

小泉八雲の息子、一雄(写真=Nina H. Kennard『Lafcadio Hearn』/PD US/Wikimedia Commons

しかも、一雄たちは、文学や芸術で功成り名を遂げた人物の家族にあるような、“死後も当人の印税やら著作権によって暮らしている”わけではない。それぞれに職についている。なのに、セツが支配的に振る舞うものだから、呆れるのも当然だろう。

そんなセツの晩年は、八雲の残した財産によって裕福……というよりは後先を顧みないものだった。1932年2月に脳溢血で倒れたセツは、以前から願っていた通りに大久保の屋敷で亡くなっている。

セツの「自分が死んだら屋敷は整理するように」との遺言に従って財産を整理した一雄だが著書では「私が兼々心配して居た通り、相当額の借財ある事が確実となった」と記している。その借財のほとんどは交際費であった。

三越其他デパートの通帳に多額の未払額が記入されてあり、購買品中に男物の帽子、反物等我々兄弟の更に心当たりのない品々があった。後でわかったのだが、それらは謡曲に凝っていた母がその筋の人々への贈り物であった。

(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)

教育は手厚くしたが、財産は使いきった

結局、ひとまずの支払いをするにしても、三男の清は貧乏画家の生活で出せそうもなく、一雄が次男の巌と二人で借財を整理。その上で、大久保の屋敷や貸家など不動産を整理して、1年ほどかけて売却し、兄弟で分配した。

セツにしてみれば、自分が死んだら、八雲が残した最大の財産といえる家屋敷を処分して払えばいいから問題ないということだったのだろう。生きている間は好きなように使い、死後は不動産で精算、それはそれで筋が通っている。

しかし子供たちにしてみれば、迷惑この上ないものであった。しかも借財の中身が、自分たちも心当たりのない謡曲仲間への贈り物というのだから、呆れるほかない。

これでは、まるでセツが八雲の財産を食い潰したみたいに見えるが、そんなことはない。一雄は、八雲が常日頃からセツにこんなことを語っていたとも記している。

「伜達には定年に達するまで教育さえしてやればそれで沢山だ。後は自分の力で食って行く。だから財産なんか一文もやる必要はない。しかし妻や娘には財産を作って置いてやらねばならぬ」

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

実際、一雄は早稲田大学、巌は京都帝国大学、清は東京美術学校と最高水準の教育まで施している。つまり、セツは八雲のいっていたことを徹底してやりきったといえるだろう。それも、まったくアクセルを踏み込んだままで。