守りは堅かったが、城内で裏切り

これだけ堅固な城で鉄砲隊の援軍も得られたのであれば、5倍の兵を相手にしても持ち堪えられるのではないか。ところが、この鉄砲隊200がワナだった。彼らを引き連れたのは元々、大和で久秀のライバルだった筒井順慶に仕えていた武将・森好久。信貴山城内で反旗を翻し、たちまち火の手が上がる。裏切りを繰り返し、のし上がってきた久秀だけに、目の前で立ち昇る火の手を見て全てを悟ったに違いない。

落城必至となった以上、このままでは平蜘蛛の茶釜を信長に奪われてしまう。自らの命は失ったとしても、それだけは絶対に避けたい。そう思ったであろう久秀は、どうやって茶釜を「爆破」したのか。

爆破か? 投げつけたのか?

平蜘蛛の茶釜の正式名称は「古典明平蜘蛛こてんみょうひらぐも」。「古天明」とは、正長年間(1428〜1429)〜天文年間(1532〜1555)に作られた、下野国天明(現・佐野市)産のもの。鉄製の釜というと丈夫そうだが、この時代、素材は砂鉄原料の和銑わずくのため割れやすい。茶の湯釜は床に落としたり空焚きによってひび割れることもあり、現在でも修繕を行う職人がいるほどだ。

さらに言うと、和銑は急な温度変化に非常に弱い。急速加熱後に急速冷却、あるいはその逆の手順を踏めば、より割れやすくなる。

だとすると、鉄砲隊からかき集めた火薬を詰めて、水で冷やした後でドカン! とやった可能性はあるのではないか。知人の火縄銃研究者に聞いたところ、仮に茶釜にギッシリ詰め込めるだけの火薬量があれば、茶釜を粉々にするには十分だという。ただし、その威力で人が「爆死」できるかは疑問が残る、とも。爆薬を詰め、縄などを導火線にして茶釜だけ爆破するのが現実的ということになる。

では、爆破以外の方法はなかったのだろうか。冒頭に挙げた松永久秀の最期を描いた月岡つきおか芳年よしとしの浮世絵には、よく見ると粉々になった茶釜の破片が宙を舞っている。