戦後「街を作り変える道」を選んだ日本

神宮外苑は、正式名称は明治神宮外苑であり、その名称通りに明治天皇の遺徳を長く後世に伝える国家事業として1926年に奉献されたものだ。その歴史はやっと100年に届いたところだ。

京成立石駅に至っては、駅の開業こそ1912年と古いが、再開発で残すべき文化だと指摘されたんべ横丁の誕生は1953年頃であり、その歴史は欧州のような旧市街とは全く違う。

街並みという意味では、地方では金沢や倉敷、飛騨高山、萩といった古い街並みが残っている場所もあるが、大都市で古くからの街並みを残しているのは、京都の祇園くらいだろう。

ヨーロッパでは、第二次世界大戦で旧市街地も大きな被害を受けたが、多くの都市が元に戻す道を選んだ。そして、元に戻した旧市街を新しく再開発することはほぼない。

一方、日本では、太平洋戦争で大きな被害を受けた都市部は、元に戻すのではなく戦災復興都市計画を策定し、街を作り変える道を選択した。

そして、一部の場所では闇市が形成され、権利関係が複雑なまま残っている場所も多い。

簡単に言えば、欧州は「過去の再現と維持」を選び、日本は「未来に向けた作り直し」を選択したわけだ。

だとすれば、現在の再開発は、その延長としての作り直しとも言えるのだ。

「原風景」ですら変化している

日本の古称に「瑞穂の国」というものがある。意味としては「稲がみずみずしく豊かに実る国」であり、古事記には「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国」(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、日本書紀上には「豊葦原千五百秋瑞穂の地」(とよあしはらのちいおあきのみずほのち)という記載がある。

水田に植えられた稲の苗
写真=iStock.com/HAYATO IWASAKI
※写真はイメージです

日本の原風景の一つに、そうした稲作が行われる美しい水田があることは間違いない。

しかし、現在我々が見ている水田の風景は、実は昔からのものではない。例えば、新潟県では見渡す限りの水田の風景が見られるが、これは都市計画法の市街化調整区域や農業振興地域制度、農地法による転用規制などに守られながら、日本全国で行われた圃場ほじょう整備事業の結果であり、その風景、景観は実は大きく変化している。

里山や森林にしても、戦後の植林事業でその姿を大きく変えている。

もちろん、変わったとはいえ守るべき原風景であるはずだが、原風景ですら変化しているのが日本という国だ。