比叡山焼き討ちの後、領地を得る
永禄11(1568)年9月、信長が義昭を奉じて上洛すると、光秀は信長の指揮下で京都の政務にあたり、あたかも信長の家臣のようになった。しかし、永禄13(1570)年1月に信長が義昭に対して意見書を突きつけた際、その宛先は朝山日乗と光秀だったから、信長は自らの家臣とは認識していなかったはずである。
元亀元(1570)年9月に志賀城の森可成(水橋研二)が討ち死にすると、同年末に光秀が志賀城に入り、翌元亀2年9月の比叡山焼き討ちの後、信長は光秀に近江国志賀郡と山門領を与え、坂本を居城とすることを許した。
天正3(1575)年に丹波攻略を指示され、光秀が丹波に赴くと、国人領主はおおむね従ったが、強きになびく面従腹背だったようで、黒井城(兵庫県丹波市)・赤井悪右衛門直正の攻略中に、それまで味方していた丹波八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治が突然離反。光秀は敗戦を余儀なくされる。翌天正4年1月に光秀はいったん近江坂本に帰陣。
同天正4年4月には遊軍として本願寺攻め、天正5(1577)年2月の紀伊根来攻め、10月には信貴山城攻めに駆り出され、丹波攻略に本腰を入れることもままならなかった。
天正6(1578)年3月、光秀は細川藤孝とともに丹波に攻め入ったが、またも遊軍として4月に播磨の秀吉支援、10月には荒木村重の謀反の対応に駆り出され、翌天正7年2月になって丹波攻略に再び着手。6月に八上城を開城させ、7月に丹後を攻め、守護・一色義有を降し、八月に黒井城を陥落した。かくして丹波・丹後を平定。天正8(1580)年に丹波は明智光秀に、丹後は細川藤孝に与えられた。
本能寺の変を起こすまでの経緯
天正8年8月、畿内の諸将を与力にしていた佐久間信盛(菅原大吉)が高野山へ追放されると、その与力の多くが光秀に附けられた。高柳光寿氏は「大和の筒井順慶をはじめとして、摂津の池田恒興・中川清秀・高山(右近)重友らはこのときに光秀の組下に入ったらしい。ここに至って光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである」と評している(『人物叢書 明智光秀』)。
天正10(1582)年、信長は武田勝頼を滅ぼし、徳川家康(松下洸平)を安土城に招いた。光秀は当初、その接待役を仰せつけられていたが、羽柴秀吉(池松壮亮)の中国・毛利攻めの援軍を命じられた。
光秀は亀山城を出たが、同天正10年6月2日に入京して織田信長が宿営する本能寺を襲い、次いで妙覚寺の信忠を襲撃。信長父子の殺害に成功した。世にいう本能寺の変である。

