比叡山焼き討ちの後、領地を得る

永禄11(1568)年9月、信長が義昭を奉じて上洛すると、光秀は信長の指揮下で京都の政務にあたり、あたかも信長の家臣のようになった。しかし、永禄13(1570)年1月に信長が義昭に対して意見書を突きつけた際、その宛先は朝山日乗と光秀だったから、信長は自らの家臣とは認識していなかったはずである。

元亀元(1570)年9月に志賀城の森可成よしなり(水橋研二)が討ち死にすると、同年末に光秀が志賀城に入り、翌元亀2年9月の比叡山焼き討ちの後、信長は光秀に近江国志賀郡と山門領を与え、坂本を居城とすることを許した。

天正3(1575)年に丹波攻略を指示され、光秀が丹波に赴くと、国人領主はおおむね従ったが、強きになびく面従腹背だったようで、黒井城(兵庫県丹波市)・赤井悪右衛門直正の攻略中に、それまで味方していた丹波八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治が突然離反。光秀は敗戦を余儀なくされる。翌天正4年1月に光秀はいったん近江坂本に帰陣。