日本にこびりついた「スポーツは無料」という価値観
ではなぜ、ここまでNetflixに批判的な声が多いのか。その最大の要因は、おそらく日本では今も「国民的スポーツは無料で見られるもの」という価値観が染みついていることにある。テレビの国内放送開始から70年以上にわたる日常が、海外からの“黒船”によって突然崩れた。その困惑からNetflixへの嫌悪感が生み出されているのではないか。
まだテレビ受像機が庶民の手が届く価格ではなかった1950年代中盤、力道山のプロレスを見るために、人々は“街頭テレビ”を囲んだ。そこには「無料でスポーツを楽しむ」だけでなく、「誰かと一緒に観戦する」文化もあった。
テレビがお茶の間に普及すると、スポーツ中継は家族共通の娯楽として位置づけられた。そしてオリンピックやサッカー、バレーボールなどのワールドカップ、世界陸上・世界水泳・世界卓球といった国際的スポーツイベントも「基本的には無料」であることが前提になっていく。
娯楽の多様化のあおりを受けたスポーツコンテンツ
裏を返すと、それだけ民放局の収益システムが盤石だったとも言えるだろう。もちろんスポーツイベントの放送権が高くなったり、各国と比較して日本経済が相対的に落ち込んだりといった要因もあるが、「テレビメディアの強さ」が下支えしていたと考えられる。
しかしながら、時代の流れは残酷だ。ネットの普及などで、興味・娯楽の細分化・多様化が進んだ。お茶の間でテレビを囲むのではなく、スマホでそれぞれが見たいものを視聴する。民放局の収益モデルも揺らいでいった。
費用対効果を考えると、放映権を払ってまで編成する必要がある番組なのか――。そうした判断のあおりを受けたのが、スポーツコンテンツだ。なかでも野球は、それまでテレビの看板を担っていたため、より目に見える影響が出た。視聴率の分散が進んだ結果、日本シリーズでないプロ野球の通常試合は、ゴールデンタイムで生中継されなくなった。

