無料の国民的コンテンツが人質に取られた
このように、スポーツイベントは「みんなで見るもの」から「個別で見るもの」へと、数十年間で移り変わっていった。一方で依然として「タダで楽しむもの」との認識は変わっておらず、収益モデルもさほど転換しなかった。
ジワジワと変化していながらも、メディア側も興行側も価値観を変えようとはしてこなかったように思える。ノスタルジー的なものがあったのか、それとも現実から目を背けようとしていたのか――。理由ははっきりしないが、目に見えるアクションは起きていない。
しかし、今回のWBCをめぐる事案により、キッパリと可視化された。かねて有料サブスクをめぐっては、うっすらとした「なにさま」感があった。具体的には「タダで楽しんできたのに、カネを取るとは何事か」といった感情だ。これもまた、表面化した。
そして、日本のお家芸である野球の世界大会がその対象となったことにより、「国民的な人気コンテンツを人質のように扱うのは何事か」という反発が噴出した。日本企業ではなく、アメリカの企業が主導権を握っている点も、昨今のナショナリズムの高まりと相まって、より強い嫌悪感につながったと思われる。
理屈で言えば、それだけ価値のある(資金投入が必要な)コンテンツと言えるのだが、感情で考えると、素直に受け入れられない。そうした印象論から、「貧乏人はWBCを見るな」と拒絶されているような感覚に陥るのではないか。
他のコンテンツも「有料の壁の向こう側」へ
今回の“反発”は、それだけ日本人にとって、野球は大切な存在であることを裏付けた。Netflixは、そうした「日本人とスポーツコンテンツの密接なつながり」を理解していなかったのか。それともわかっていたからこそ変革に挑んだのか。いずれにせよ、今回のWBCが試金石になるはずだ。
ただ、視聴者も「Netflix憎し」を言っているヒマはない。今後さらにテレビ業界が縮小すれば、あらゆる中継コンテンツがペイウォール(課金の壁)の向こう側に移動するだろう。おそらく、それはスポーツだけではない。テレビそのものが「サブスクお試し視聴の場」になる可能性すらありうる。
そう考えると、Netflixという個別サービスをバッシングしている場合ではない。時代に合った「コンテンツの楽しみ方」とは何か。その価値観を考え直さない限り、根本的な解決にはならないだろう。

