ずらり13基が並ぶ庚申塔群
では、明治通りに出て右折し、しばらく歩いて歩道橋を渡り、そのまま南東に少し進むと、スタバとコンビニの間に細い道が左に延びています。途中、結構な傾斜の坂です。その道を上り詰めると、左に豊栄稲荷、正面に金王八幡宮の杜があらわれます。
豊栄稲荷神社は、先ほど見た渋谷川出口の脇にあった田中稲荷と、道玄坂上にあった豊澤稲荷を合祀した神社。東京オリンピック(1964年)に向けた開発のために立ち退きを迫られ、こちらにやってきました。で、圧巻はずらり13基並んだ庚申塔群です。
庚申塔とは庚申信仰にもとづく石塔のことで、東京では寺社の境内や路傍でよく見かけますが、これほどの数が集まった例はほかでは知りません。
境内の石碑「庚申塔略記」には、こう書かれています。
「……ここに建てられている庚申塔は、江戸時代、金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものです。そのころ人々は大変盛んだった庚申信仰を受入れ、近隣相集い講を結んで六一日目毎に廻ってくる庚申の日に勤行、飲食、談笑し、しばし日頃の労苦を忘れて一夜を過ご(した)」(昭和47年、庚申懇話会)
60日ごとに神々を祀り、寝ずに夜明かし
この60日おきの夜通しイベントを「庚申待」といい、江戸時代(前期〜中期)にかけて民間で爆発的なブームとなりました。そのココロは、〈人間の体内には三尸の虫がいて、庚申の日の夜、天に登って天帝にその人の日頃の行いを忠告するため、これを阻止すべく、夜通し集まって神々を祀り、寝ずに夜明かしする〉というものです。
その指南書「庚申縁起」には、「1年に6度、3年で18度の庚申待が終ったら、平素よりも供物をたくさんあげて塚を築き、塔を建てて盛大に供養するように」とあり、結果、庚申塔がそこらの巷に残されてきたわけです。
ともあれ、この石像群、たまらないですね。おなじみの青面金剛が中尊のもの、脇侍の二童子を配したもの、三猿(見ざる聞かざる言わざる)を従えたもの、三猿のみのもの、文字だけのもの。カワイイも怖いも含めた存在感。これらも昭和の渋谷大改造で居場所を失い、集められたものですが、残ってくれてありがとうといいたい気分です。

