セツは金に無頓着な八雲を“笑っていた”

靴下から銀貨がこぼれ出ている。金の管理がどうこう以前の話である。

そして注目すべきは、セツがこのエピソードを語る時の態度だ。怒るでもなく、嘆くでもない。「ヘルンは生来金には無頓着な方で、それはそれはおかしいようでした」とは、つまり、笑っているのだ。

さらには「そのような俗才は持ちませんでした」と言い切るのがぶっ飛んでいる。俗才、すなわち世俗的な才覚。普通の人なら持っている金勘定の能力を、うちの人は持っていなかった。ただそれだけのことだと言わんばかりである。

咎めるどころか、まるで金に無頓着であることが八雲の美点であるかのように語っている。聖母のような包容力というべきか、あるいは、セツもまた、俗才とは無縁の人だったのかもしれない。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons

「思い出の記」は後年になってセツの語ったことを聞き書きした記録である。八雲の金への無頓着さを示すエピソードを数多く語っているところをみると、記憶に刻まれるくらい衝撃的なことの連続だったのだろう。

例えば、後年東京に移ってからのこと。この頃になると夫婦で絵の展覧会……いわゆる展示即売に出かけることが多かったが、八雲は気に入ったものがあると「金に糸目はつけん」とばかりに、買ってしまうのだ。

「買っていい?」ではなく「よいと思いますか?」

「あなた、あの絵どう思いますか」と申しますから「おねだん余り高いですね」と私は申します。金に頓着なく買おう買おうとするのを、少し恐れてこう返事をいたすのでございます。

すると「ノウ、私、金の話でないです。あの絵の話です。あなたよいと思いますか」「美しい、よい絵と思います」と申しますと「あなた、よいと思いますならば買いましょう。この価まだ安いです。もう少し出しましょう」というのです。よいとなると価よりも沢山、金をやりたがったのです。

セツは値段が高いと牽制している。しかし八雲は「金の話でない」と一蹴。聞きたいのは絵の善し悪しだけだと言う。

いやいや、金の話だろう。

しかし、ここで注意したいのは八雲の聞き方だ。「買っていいですか」とは聞いていない。「あの絵どう思いますか」である。あくまで感想を求めているだけ。これは巧妙だ。

現代に置き換えてみるとわかりやすい。例えば、家電量販店で最新の大型テレビの前に夫婦で立っているとする。夫は買う気満々である。しかし「これ買っていい?」とは聞かない。「この画質すごくない?」と聞くのだ。妻が「きれいだね」と答えた瞬間、「だよね、じゃあ買おう」。あるいはフィギュアの予約開始日にスマホを眺めながら「この造形すごいんだよ」と妻に見せる。「よくできてるね」と言った瞬間、もうカートに入っている。