「空気を壊すこと」への嫌悪感

ところが、コミュニケーションにいろいろと悩んでいる人にとっては、そうした一見軽〜いトークこそが、けっこう長い時間、気分を沈ませる引き金にもなったりしているのです。

その状況によっては、重たく、冷たく、抱えづらい思い出や事実の数々とつながったりします。瞬時にブワッとネットワークのようにひろがって、自分ではコントロールできない巨大な情報の塊のようになってしまうこともあるでしょう。

大きな「不自然な間」を、コミュニケーションの中で作ってしまうわけです。

「あ、どうしたの、なんか悪いことでも言っちゃった?」と軽く、間を埋める言葉がけをもらっても、ますます一人で、その場に深い穴を掘ってしまい、何も返すことができません。

空気を壊したことへの自責や悲しみ、嫌悪感を、さらに抱えることになってしまう人も少なくありません。

こうしたことが日常の中でちょくちょくあるということを、先生方からもお聞きし、高校生たちと一緒に、「苦手な話題をふられたときに自分を守る」ためのスキルについて、練習したことがあります。

この活動は、「うまくいかないことを性格のせいにせず、未熟なソーシャルスキルとして捉え、事前に練習して備えておこう」という考えに基づいたものです。さまざまな対人場面での不安やトラブルを予防する「ソーシャル・スキル・トレーニング(SST)」の一環として行ないました。

葬式のシーンで垣間見える人間らしさ

感情リテラシーがどれほど成熟しているかは、日常の何気ないやりとりの中に表われることがあります。

このことを思うと、私は伊丹十三監督の映画『お葬式』(1984年公開)を思い出さずにはいられません。作品の中で、葬儀が粛々と進む最中、ふと目に留まるのは、遺族の一人の「靴下の小さな穴」。張りつめた空気の中で、そのささやかな出来事が、思わず人の心をなごませる瞬間となっていました。

お葬式の花
写真=iStock.com/kyonntra
※写真はイメージです

今では、葬儀も家族葬が一般的になり、畳に正座をするような場面は少なくなりました。ホールでパイプ椅子に座る形式も増え、形式ばらない雰囲気であることも多くなっています。

しかし、この映画が描かれた時代には、葬儀とは、厳粛で格式を重んじるものであり、服装や立ち居振る舞いにも“完璧さ”が求められていました。

ですから、そんな雰囲気の中での「靴下の穴」というささやかな“ほころび”は、一見、場違いに思えるかもしれません。けれども、そうした小さな失敗は、誰にでも起こりうる「人間らしさ」の象徴であり、だからこそ見る人の心に残ります。厳粛な場面であるにもかかわらず、慌てて駆けつけた人の人間味を垣間見ることができます。

伊丹監督は、そうした瞬間のあたたかさや滑稽こっけいさを丁寧にすくい取り、映画の中に織り込んでいました。感情の抑制と揺らぎ、人間のふるまいの豊かさを描き出した、深みのある作品だと思います。