また、カーレースのF1において、3度のワールドチャンピオンになったアイルトン・セナにもこんな話がある。
《アイルトン・セナは全長6kmもあるコースを、レース前に自分の足で歩いてまわる。彼は路面を丹念に観察し、どんなささいなコース上のあとも見逃さずに正確に記憶しておく。彼の天才的なドライビングはこんな努力に支えられているわけだ》(『F1グランプリの駆け引き』アラン・プロスト、二見書房)
華やかな舞台の裏では、情報に対する地味な努力が重ねられていたのだ。
さて、こうした「顧客」や「環境」を知る努力とは、いわば外部条件に関する知識だが、実は内部条件のほう、つまり「己を知る」ほうがより重要度が高く、勝敗のポイントとなるケースも現実には数多い。
誰しも贔屓目や欲目があるため、自分を客観視することは難しく、己ほど知りがたい存在はないからだ。
では、どうしたら己を正しく捉えることができるのだろう。残念ながら『孫子』にその答えはないが、他の中国古典に、こんなヒントがある。
・身を張って諌言する家臣が4人、超大国にいれば、領土を削られるような失態はしない。
身を張って諌言する家臣が3人、大国にいれば国は危険にさらされない
(『荀子』子道篇)
つまり、諌言役の有無が、鍵になるのだ。他人から、「おまえ、最近増長してないか」「実力を過信しているぞ」などと耳の痛い諌言を口にしてもらって、はじめて己の正確な姿が把握できるわけだ。
さらに社会やビジネスの現場の厳しい現実が諌言役を果たしてくれるという指摘もある。人は頭の中でなら百戦百勝だが、1歩外へ出ると自分の実力不足を思い知らされることばかりだからだ。
情報が力であることは、古代も現代もかわらない。要は、その努力をどこまで徹底できるかで、差が生まれるのだ。