秀吉の実績のウラにある弟の異能
天正5年(1577)に秀吉が播磨(兵庫県南西部)を攻めたときには、秀長は秀吉の戦闘に与力(軍事的な加勢役)として参加しており、これ以後の秀長は、秀吉と行動をともにしている。ただ、続いて但馬(兵庫県北部)に進出した際、秀吉は竹田城(朝来市)を攻め落とすと、修復することも含めて、秀長に竹田城を管轄させている。
秀長は築城にも長けている、と秀吉が評価していたということだろう。すると、従来、秀吉が行ったと考えられてきた築城や作戦に、秀長が大きく関わっていた可能性もありそうだ。
整理してみよう。秀長は兄の秀吉とは別に、あるいは兄以上に信長から評価され、むしろ兄よりも早く出世した可能性さえある。そして、信長はみずから率いる軍の先陣の、さらにその先頭に置くほど秀長を信頼し、戦闘能力も買っていた。秀吉の与力になってからも、城を築いたり作戦を練ったりするうえで秀長の力は欠かせず、秀吉の築城や作戦と思われているものも、じつは秀長が大きく関与している可能性がある――。
こうした諸々を考えると、桶狭間合戦が終わった時点で信長が秀長を評価する立場にいたなら、近習にしたいと考えるのは、とても自然なことに思えるのである。
検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます


