秀長の「長」が意味すること

同時代の史料に秀長の名がはじめて見えるのは、天正元年(1573)8月16日の文書である。近江国(滋賀県)伊香郡黒田郷(長浜市)に、百姓が帰村した際に軍勢が略奪などをすることを禁止し、違反者がいれば通告するように呼び掛ける発給文書が出され、そこに「木下小一郎長秀」という署名がある。

この時期は信長が浅井氏を攻めており、黒田郷は浅井氏の領国の北部なので、秀長は北部の攻略を担当していたのだろう。諱名いみな(実名)が「長秀」となっているが、当初の諱名は長秀で、のちに秀長に改名している。いずれにしても注目されるのは「長」の字が入っていることで、信長の偏諱(目上の人の実名の1文字)があたえられたと考えられる。

それは信長からよほど目をかけられていた証であり、戦国史研究家の和田裕弘氏は「秀長が信長に仕えた時期は不明だが、ひょっとすると兄秀吉よりも早くから出世していた可能性もなしとはしない」と書く(『豊臣秀長』中公新書)。

続いて、武将としての秀長が史料に初登場するのは『信長公記』で、天正2年(1574)7月に、信長が伊勢(三重県北中部および愛知県と岐阜県の一部)長島(三重県桑名市)の一向一揆を攻略した際の記事である。

豊臣秀長像
豊臣秀長像(写真=奈良県大和郡山市春岳院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉よりも秀長のほうが使える

それによると、このとき信長は自軍を3つに分け、東軍を嫡男の信忠に率いさせ、西軍は佐久間信盛や柴田勝家らにまかせ、自身は中央軍を率いた。その中央軍の先陣は、木下小一郎以下16名で構成されていたという。

しかも秀長の名は、16名の先頭に記されている。つまり、信長の本陣付の先陣を務める家臣のトップが秀長なのである。信長が秀長の実力を相当高く買っていた、ということにほかならない。

文教大学教授の中村修也氏はこう書いている。「これまで秀長は、秀吉が自分の家臣として農民から武士に引き上げたように考えられていた。あるいは、秀吉の信長家臣化とそれほど時間的な差なく、秀長も信長の家臣になっていた可能性を考えなければならないかもしれない」(『豊臣秀長』所収「秀長の合戦」宝島社新書)。

そして一揆勢との戦闘についても、「木下小一郎、浅井新八両人懸向はれ候。こだみ埼川口舟を引付け、一揆堤へ取上りかゝへ候。丹羽五郎左衛門懸向かひ追崩し、数多討捕り」と記されている。つまり、秀長と浅井新八の両名で一揆勢を堤に追い上げ、丹羽長秀が攻めて多数を討ち取った、とのこと。要は、信長の親衛隊というべき秀長と浅井、丹羽の3人の活躍によって、一揆の重要拠点が陥落したと評されているのである。

ちなみに、このとき秀吉は秀長とすっかり別の行動をとっている。しかも、『信長公記』に書かれている秀吉の行動は、一揆に参加した夫婦を捕えて処刑したというだけだ。長島一揆の攻略にかぎって見ると、信長は少なくともこのとき、秀吉よりも秀長のほうが役立つと評価していた、と考えるほかない。