“狭い”からこそ、八雲とセツは心を通わせた

これは、セツを世間の好奇の目から、遠ざけるには最適な立地でもあった。

前述のように「外国人教師が女中を妻にした」という噂は、繁華街に近い末次本町では避けようがなかった。だが、武家屋敷の静かな通りに引っ越せば、少なくとも日常的に噂話に晒されることはない。八雲が求めたのは、愛する妻との静かな暮らしだったのだ。

そしてこの静かな屋敷で、セツは八雲に日本の怪談や民話を語って聞かせたであろう。

お気に入りの浴衣と庭下駄で庭を散歩する八雲の傍らで、セツは松江に伝わる不思議な話を次々と披露する。狐の話、幽霊の話、神様の話……。八雲は目を輝かせて聞き入り、時には質問を重ね、時には深く頷いたことが想像できる。

襖一枚の距離に妻がいて、庭を愛でて怪談が聞ける。こんな幸福が、かつて八雲の人生にあっただろうか。広い屋敷で義家族と適度な距離を保ちながら暮らしていたら、この親密さは生まれなかっただろう。狭いからこそ、八雲とセツは毎日顔を合わせ、言葉を交わし、心を通わせることができたのだ。

そして、やがて彼が義母や義父母とも温かい関係を築けるようになったのは、この北堀町での日々があったからこそだろう。

狭い家は、八雲にとって家族への入り口だったのだ。

松江の冬が寒すぎて、5カ月後には熊本へ

しかし、この幸福な日々は長くは続かなかった。八雲がこの家で暮らしたのは、わずか5カ月。1891年11月、彼はセツを伴って熊本へと移っている。理由は、松江の冬だった。

それは、長らく西インド諸島など温暖な地で生活していた八雲が極端な寒がりだったことに加えて、当時の暖房事情も大きかった。セツは「その頃の松江には、まだストーヴと申す物がありませんでした」と記している(小泉節子・小泉一雄『小泉八雲』恒文社1976年)。中学校の教室にすら火鉢しかない。八雲にとって、これは耐えがたい寒さだった。

この愛すべき屋敷は、冬には凍えるほどに寒かった。

なにしろ、眺望も庭も素晴らしい武家屋敷だが、昔ながらの日本家屋らしく風通しがいい。夏は快適だが、冬は襖一枚では寒風を防げない。廊下もなく、部屋から部屋へ移動するたびに冷気が入り込む。

筆者が訪問したのは1月初頭。文化財ということで襖や扉が開いたままということもあるだろうが、中は寒い。実際に暮らすとしたら夏は涼しいかもしれないが、冬はストーブをガンガンに焚いても隙間風で凍えるのではないかと思えた。

そんな屋敷なのに、当時の暖房器具は火鉢が限界……愛する妻との親密な暮らしを可能にした「襖一枚の狭さ」が、冬には仇となったであろうことは容易に想像できた。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)

こうして、八雲は後ろ髪を引かれながらも、松江を離れる決意をしたのである。

皮肉なことに、家族の温もりを教えてくれたこの小さな家は、物理的な温もりには欠けていたのだ。それでも、短いが濃密な5カ月……それは、八雲が「家族」というものを知るためになくてはならないものだったのだ。

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