それからおよそ20年後に著された江戸風俗のエンサイクロペディア『嬉遊笑覧』(文政十三・1830年)には、「今のどら焼は又金鐔やきともいふ、これ麩の焼と銀鐔を取まぜて作りたるものなり」とあり、この頃になると小麦粉生地で餡を包んで焼いたきんつば状の菓子を「どらやき」といっていたらしいことが窺える。同書によると、大きいものをどら焼、小さいものを金つばと呼び分けていたという。

江戸が「武士の都」であったからこそ、銅鑼が使われた

「どらやき」とは、つまり銅鑼で焼いたもの、という意味だろう。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入る際に、山鹿流の陣太鼓を鳴らした……というのは、お芝居の創作だ。事件後、赤穂浪士は何軒かの大名にお預けとなるが、そこでの持ち物検査の記録に陣太鼓は出てこない。代わりにあるのが、銅鑼と鉦と笛。実際に、大石内蔵助が用いたのは銅鑼で、泉岳寺にはその銅鑼がまだ残っている。