東京名物どら焼

東京にはどら焼の名店が数多ある。浅草の〈亀十〉、東十条の〈黒松本舗草月〉、堀留町の〈清寿軒〉、〈うさぎや〉など、黒門町、日本橋、阿佐ヶ谷(現在は閉店)とあって、それぞれにご贔屓がついていた。駒込の〈中里〉の揚最中や南蛮焼もちょっとどら焼風で、こういう好みのどら焼ファンもいる。

粒あんがどっしり詰まったどら焼き
写真=iStock.com/c11yg
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池波正太郎氏の『食卓の情景』(新潮文庫)には、戦前、株屋の小僧をしていた折に、仲買店の大将から「正どん、明日、〔うさぎや〕をたのむよ」と、お遣いを頼まれた思い出話が出てくる。人気のお店で、昼前には大抵売り切れてしまうから、出勤前に買いに行くのである。

私の祖母も黒門町の〈うさぎや〉が贔屓で、手土産に買って帰って、よく小遣いをもらった。

「おばあちゃん、これじゃどら焼代より多いよ」

というと、

「早起きして、わざわざ遠まわりして買ってきてくれたのだから」

と、嬉しそうに食べていた。

すっかり東京名物の感があるどら焼だが、どら焼が東京名物となったゆくたてには、やや複雑な背景がある。

歴史を辿る「ぎんつば」→「きんつば」→「どらやき」

どら焼はなぜ、東京名物になり得たのだろうか?

「どら焼」の歴史を辿ろうとするとき、どうしても無視できないのが「きんつば」である。丸と四角、現在ではまったく形状を異にする両者であるが、その出発点はどうやら同じであるらしい。

「きんつば」ははじめ、京都もしくは大坂において「ぎんつば」として誕生した。文字通り「銀の鍔」の意である。有り体は上新粉の生地で餡を包んで焼いたもので、「鍔」というくらいだからはじめは丸い形状であったという(もちろん角鍔もあるけれど)。包んで……というほどしっかりした生地ではなかったかもしれない。餡子玉を、水溶き上新粉にくぐらせて、焼くといった風情でもあっただろうか。

「どら焼」の歴史
イラスト=髙山宗東

これが江戸に伝わると、江戸においては、高額貨幣は銀よりも金が通用していたので「金鍔」と言い換えられた。また、「江戸では米粉ではなく、小麦粉を用いたので金色っぽく見えた」という説もある。

その一方で江戸には「どらやき」というものが存在していた。

享和二(1802)年に書かれた『狂言雑話五大力』には「飩餅(どらやき)」という表記が見え、同じ年に発表された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年)には「もちやのどらやきをやくごとき……」とある。

また、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』〔文化六〜十(1809~13)年刊〕には、

お川「あの面でやきもちぢやア銅羅燒だアな」

お山「お縁さんがお色白ときてゐるから、夫婦揃ったところはしら玉と金鍔燒をひとつ竹の皮に包んだといふもんだらう」

と見え、どら焼と焼き餅と金つばを混同し、同類の菓子を指していることが窺える。つまりこの頃の江戸のどら焼は、大福を焼いたような、「餡入り焼き餅」だったのではないかと思しいのだ。