東京は100年前から不便な街だった
ここで触れておきたいのは、ここまで大規模改造しないと、当時の東京がいかに不便な街だったかということである。
戦後、都市計画の第一人者となった石川栄耀は、もともと江戸の街は政治の中心である江戸城と、経済の中心である日本橋を中心に街路が設定されていたとしている。
ところが、大正・昭和になると産業の移動、副都心の誕生によりよじれが起きていた。1936年の土木学会での講演で石川は、以下のような問題を挙げている(土木学会 編『工学会大会講演集 第3回(土木関係)』土木学会 1936年)。
・北から都心へ向かう主要道路が神田に集中しており、交通量が過大になって渋滞の要因になっている
・日本橋、神田間の交通導線が悪い。旧来の道路網が十分に整理されておらず、両地区の間の交通導線がスムーズでない
・蔵前は浜離宮周辺など複数の道路系統が錯綜し、連続性に欠けたり、周辺との接続が中断している箇所がある
・上野駅付近や、赤坂見附など主要交差点や駅周辺で交通量を分散するルートが整備されておらず、慢性的な混雑が発生している
つまり、明治以降、丸の内に官庁街が整備されて新たな都心が形成されたり、東京港の周辺の産業の集積、新宿や渋谷など新たなターミナルが作られたが、道路整備がまったく追いついていなかったわけである。
ゆえに関東大震災がなかったとしても、大規模都市改造は東京が「帝都」として発展していくために欠かせないものであったといえるだろう。
幅員100mの道路計画も
これらの計画は、戦争と共に中断を余儀なくされてしまう。しかし、終戦によって新たな復興計画のもとで、道路整備は再開されることになる。この戦災復興計画を策定したのが石川であった。
1946年に示された新たな都市計画では、道路は次のように計画されている。
幹線放射街路34路線(幅員40〜100メートル)
幹線環状街路9路線(幅員40〜100メートル)
ここで注目したいのは道路の幅員である。前述の通り、関東大震災後では幅員40メートルで猛烈に批判されたのに、今度は100メートルにしようというわけである。
しかも、石川の計画は非常に理想主義的で、その道路に沿って幅員50〜200メートルの帯状の緑地をつくるとしていた。この計画では環状道路のみならず、昭和通りや蔵前橋通りも100メートル道路にするとされている。
完全に地域が分断されてしまうが、これこそが石川の目的であった。石川は、道路と緑地で地域を分割、それまで地縁を破壊して、新たな民主主義社会を実現するという壮大な構想を抱いていたのである。現代であれば道路ができて変わるのはせいぜい生活スタイル程度。ところが、当時の都市計画家たちは都市を改造すれば社会そのものが革新すると本気で考えていたのである。
もちろん、当時でもそんな壮大過ぎる計画が実現するはずもなかった。ないしろ、予算がなかった。当時の東京都の考える復興とは、空襲の膨大なガレキをどのように処理するかであり、空襲で更地が増えたので「これはチャンス」とばかりに夢を実現しようとする石川のような人物は少数派に過ぎなかった(ガレキ処理で場当たり的に東京都内の川や水路が埋め立てられたので、都市が改造されたのも事実である)。
それでも現代と違うのは、一種誇大妄想的な石川のような人物が要職にあり、都市計画の采配を握ることができていたことだ。今になってみれば、その誇大妄想で道路が整備できたのだから、人材配置に間違いは無かったのかも知れない。
100年かけて進捗率は7割程度
こうして、環状線やそのほかの道路は幅員こそ、縮小したものの戦前の計画を引き継いだ1946年の計画をベースに、淡々と進められていくことになる。
1964年の東京オリンピックを前に環状七号線が大幅整備されたこと、2020年の東京五輪・パラリンピックを前に環状二号線の虎ノ門~新橋間が開通したことなど、注目される動きもあったが、基本的には、僅かずつ計画が進むことを繰り返してきた。


