東京市では1920年の都市計画法の成立後、大規模な都市改造を考え1921年に「東京都市計画街路網」を決定している。この計画は、次のようなものだった。

いわゆる環状線の改修は、環状線及び放射線においては芝区界を起点とし品川、目黒、渋谷、戸塚、巣鴨日暮里、寺島、大島その他各町を経て砂町に至る幅員12間延長八里あまりの大道路新設又は構改にして……(復興調査協会 編『帝都復興史:附・横浜復興記念史』第1巻 興文堂書院 1930年)

「帝都復興」の重要なピースだった

この時点では、環状道路の計画はわずかなものだった。ところが関東大震災が発生すると、後藤新平は、これを大規模都市改造のまたとない機会と考えた。

震災の翌日に成立した山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤は、その日のうちに基本方針を策定、帝都復興院を設立し自分が総裁に就任している。ここに後藤は自分と意見を同じくする識者を集めて計画を進めた。