東京市では1920年の都市計画法の成立後、大規模な都市改造を考え1921年に「東京都市計画街路網」を決定している。この計画は、次のようなものだった。
「帝都復興」の重要なピースだった
この時点では、環状道路の計画はわずかなものだった。ところが関東大震災が発生すると、後藤新平は、これを大規模都市改造のまたとない機会と考えた。
震災の翌日に成立した山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤は、その日のうちに基本方針を策定、帝都復興院を設立し自分が総裁に就任している。ここに後藤は自分と意見を同じくする識者を集めて計画を進めた。
後藤の計画は猛烈なスピードで、9月9日には復興予算を当時の金額で約41億円であると示している。これはあまりにも膨大な金額で、最終的な政府案は約10億円まで減額。しかし、それでも議会からは高すぎると、反発が強く最終的には約5億7500万円まで減額されている。
高すぎるという批判は、議会の将来性に対する見識のなさである一方、後藤の計画もダイナミックすぎた。
特に問題になったのは、後藤の計画では整備する道路の多くを幅員40間(当時の表記でメートルを意味する)にしようとしていたこと。つまり幅40メートルの道路である。
この計画が実現していれば、東京のあらゆる通りが、靖国通りや昭和通りみたいになっていたに違いない。当然維持費がかかるし、商業地では対岸との道路幅が広すぎては商売に差し障ると猛反発され、修正されることになった。
後藤新平の「先見の明」
現代から考えると、先見の明があったといえる後藤だが、問題はあまりに説明不足で計画を急ぎすぎたことだろう。
ともあれ、紆余曲折を経て都心部の外周をめぐる環状道路と、それと接続する放射道路をベースとした都市計画は進められることになった。
なにより、後藤の復興計画は、日本人に都市とは計画的につくるものであること、すなわち、区画整理やインフラを整備、道路は舗装し並木や歩道があるという現代ならば常識的なことを、初めて体験させたものだった。
こうして始まった、東京都の都市計画は昭和前期にはさらに進捗している。1932年10月、東京市は合併に面積を拡大。現在の23区に相当する大東京が成立している。これ以降、東京では震災復興を終えた地域と並んで新たな地域の都市計画にも取り組むことになる。
環状道路の計画は、この市域拡張を見越して実施されたものといえる。1927年8月新たに系統的な街路網の計画が決定。ここでは、郊外に幅員22〜25メートルの幹線放射線道路16本、幹線環状道路3本を配置、さらにそれら道路を接続するために市内に幅員18〜36メートルの道路を配置することを決めた。
この計画こそが、現在の東京の都市計画の基本になっているわけだ。

