豊臣秀吉が織田信長の家臣になるまでの経歴には謎が多い。歴史に名を残す成功者であるにもかかわらず、一体なぜなのか。作家・海音寺潮五郎さんの著書『武将列伝 戦国揺籃篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

あだ名の「猿」は申年生まれだから?

秀吉の前半生はほとんどわかっていない。諸太閤記の中で最も史料的価値の高い川角太閤記は本能寺の事変から書き出して、前半生には全然触れていない。

秀吉と同時代の竹中重門(半兵衛重治の子)の豊鑑とよかがみは、「尾張国愛知郡中村郷のあやしき民の子なれば父母の名も誰かは知らん」という書き出しで書いてはあるが、簡潔をきわめて、書いてないも同然だ。甫菴ほあん太閤記は相当くわしいが、明らかにウソとわかることが多いので、信用できない。

第一、生年月日からはっきりしない。天文5年丙申ひのえさる正月元日という説があり、同年6月15日という説があり、天文6年丁酉ひのととり2月6日という説があり、一定しないが、ぼくは天文5年生まれであったように思う。

彼は幼い時「猿」と異名されていたというが、それは生まれ年の干支から来たと思うからだ。天文5年は申年である。しかしながら、その異名も、顔つきから来たとも考えられるから、断言しているわけではない。

母親すらも覚えていない日に誕生した

年がわからないから、月日に至っては一層わからない。元旦生まれというのは、彼が曠古こうこの大英雄であり、大好運の人であるところから、これほどの人物が普通の日に生まれるはずはない、一年のうちで最もめでたい元日の生まれであろうというところから考え出されたものであろう。うがった考え方をすれば、生まれた月日がはっきりしないから、こんな説も出たのだといえよう。

秀吉の母大政所おおまんどころはずいぶん長生きした人で、朝鮮陣の時まで生きていたのだから、大政所に正確な記憶があれば、こんな様々な説の出るはずはない。何しろあやしき民だ。貧民には誕生日の記憶などないのが古今普通だ。大政所にも記憶がなかったのであろう。

大政所像
写真=Wikimedia Commons
大政所像(大徳寺蔵、作者不詳/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかし、これが正月元日という特別な日に生まれたのなら、いくら在郷ざいごうの百姓婆さんでも記憶していないはずはなかろう。元日に決定しないで各説あるのは、元日の生まれでなかった証拠になるとも言える。