信長は「猿に似ている」と笑って採用
信長につかえた年には両説ある。甫菴太閤記は永禄元年9月1日だというから、彼が23の時だ。太閤素生記は18の時とする。前書では、信長に直訴して、実父がお家に仕えたことのあるものであると言い立てて、召しかかえていただきたいと嘆願したところ、信長は、
「面がまえが猿に似ているわ。気軽できびきびしているようじゃ。心も素直であろうわ」
と笑って、召しかかえたという。
豊鑑では、直訴は直訴だが、信長が川遊びして帰る途中に待ちかまえていたという。祖父物語では、信長の小人頭の一人、一若という者が中村の生まれであったので、これの推薦で草履取りに召しかかえられたという。
いずれが正しいか、今となっては確かめようもない。確かなことは20前後に信長に仕え、それはごく卑賤な役であったとしかいえない。
出世のためにトイレに潜伏していた?
かくして仕えたものの、彼の名が史料価値の高い史書に出て来るのは、彼が33歳の秋からだ。それ以前のことはすべて伝説的に語り伝えられたものばかりである。
彼が信長の草履取りであった時、実に忠実で、どんな時刻に信長が呼んでも、声に応じて出て来たとか、寒夜に信長のはきものをおのれの背中に入れて温めていたとかいう話は有名であるが、名将言行録にある話は何から引いたかわからないが、最も示唆に富んでいる。
秀吉は信長側近の小姓らに自分の名と顔を知られるために一策を案じて、小姓らの小便所の下に潜んでいて、上から小便をかけられると、
「何者なれば人に小便をしかけるぞ」
ととがめた。相手はおどろいて、
「知らずしてしたことじゃ。かんにんせよ」
とわびる。すると、
「知りたまわずしてのことなら、もっともなことでござる。いかにもかんにんしましょう」
とゆるす。相手は聞きわけのよい者じゃと、皆知るようになったという。
昔の小便所の構造は、数年前江州彦根市の井伊家の下屋敷だった家で一見した。その床下は自由に人の出入りの出来る、はなはだ開放的なものだが、それにしても、一人くらいならだが、いく人にも同じようなことをしたとあってはいぶかしい話だ。
しかし秀吉が早く出世するには早く信長とその側近に自分を知られるがよいとあせったことは事実であろう。これはそれを具体的に表現したのだと考えれば面白い。

