織田信長には、比叡山焼き討ちや一向宗門徒の虐殺など過激なエピソードが多い。なぜこんな人物が日本の偉人となったのか。作家・海音寺潮五郎さんの著書『武将列伝 戦国揺籃篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

新しい時代をつくった「暴力的英雄」

古い時代が行きづまって、新しい時代にならなければならないのに、陣痛が長引いている時期には、暴力的英雄が出て来なければ、人間の歴史は進展しないことがある。暴風雨や火山の爆発力のような破壊力を持つ大魔王的英雄が出現して、新しい時代の到来をさまたげている事物を破壊してくれなければ、新時代が到来しないのである。

腫物をひらく外科医のメスにたとえることが出来よう。これによって、人を疼痛とうつうさせていた腐肉とうみとが排出され、痛みはやみ、新しい肉が盛り上り、人は健康になるのである。

信長の暴力的破壊の実例は挙げるまでもない。本文に記しただけでも、叡山の焼き討ち、高野聖こうやひじりの大量殺戮があるが、あれ以後に伊勢長島の本願寺門徒らを征伐して二万余の門徒らを一挙に焼き殺している。越前の門徒らも大量殺戮している。

信長の時代は、中世から近世へ移るための陣痛期にあたる。宗教が中世紀の最も強力な柱であったことは、西洋も日本もかわりはない。社会は皆これを桎梏しっこくとしていたが、人はまだ迷信に支配されている時代だ。修行を積んだ僧は、呪術や調伏の法を心得ていて、その怒りに触れるのは最も危険であると、皆考えていた。信長は敢てこのタブーを犯し、最も徹底的に破壊したのである。

織田信長像
写真=Wikimedia Commons
織田信長像(神戸市立博物館蔵、写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

一銭を盗んだだけで斬首する厳刑主義

以上は形にあらわれた破壊であるが、政治の面にもそれがある。

彼は厳刑主義者で、一銭切りとて、一銭を盗んだものでも首を斬るという最も峻烈な法を励行したので、彼の領内では戦国争乱の世であるにかかわらず、犯罪は絶無に近く、民は夜戸をとざさず、夜間の旅も安全であったという。

峻刑は大いに効があったわけだが、およそ刑罰には昔から標準というものがある。一銭を盗んで斬首されるなら、百金を盗んだもの、人を殺傷した者には、どんな刑罰を科したらよいか、こう考えるのが常識である。信長はこの常識を無視し、ふみにじったのである。