連載コラム「リーチ・ツモ・ドラ1」に込めた思い
11月に文藝春秋から『勝負眼』という本を出しました。『週刊文春』で僕が連載しているコラムを一冊にまとめたもので、連載の方のタイトルは「リーチ・ツモ・ドラ1」。麻雀を知っている人ならピンとくる言葉だと思いますが、この言葉には僕なりのある思いを込めています。
麻雀には「役満」や「倍満」といった派手な大物手があります。卓上の華であり、一発逆転の派手さに誰もが惹かれる手でしょう。しかし、実際の勝負において、あるいは社会生活において本当に必要なのは、地道に最後まで諦めずやり抜く姿勢です。いきなり大物手を振りかざして一攫千金を狙うのではなく、一歩一歩を確実に、手堅く積み重ねていく――。そんな「謙虚さ」や「着実さ」こそが、長く勝ち続けるためには不可欠なんです。つまり、「リーチ・ツモ・ドラ1」とは、派手さはないけれど、まずはそのくらいから一歩ずつ積み上げていこう、そんな思いを込めたタイトルなのです。
なぜ「勝者」と「敗者」が存在するのか
そして、「勝負眼」について考えるとき、どうしても避けて通れないのが、「運」という要素についてどう向き合うか、というテーマです。まず大前提として、僕は「運は平等なものだ」と考えています。世の中には「運がいい人」と「運が悪い人」がいる、と多くの人は信じています。あの人はいつもツイている、自分はいつも貧乏くじを引かされる、というように。でも、僕の感覚は違います。運というのは、実は残酷なほど「平等」なものです。
僕は学生時代から麻雀にのめり込み、痺れるような勝負の場に身を置き続けてきました。そうやって何万回、何十万回という局数を重ね、膨大な数の勝負のサンプルを見てくると、ある一つの真理のようなものに気づかされます。それは、「いい時と悪い時は、誰にでも必ず訪れる」ということです。
極端に運だけで勝ち続けている人もいなければ、一生運に見放され続けている人もいません。短期的に見れば、確かに偏りはあります。信じられないようなラッキーが続くこともあれば、理不尽なアンラッキーが重なり、何をしても裏目に出る時期だってあるでしょう。しかし、長いスパンで見れば、確率は驚くほど平均値の中央付近に収束していきます。結局のところ、一生のうちに配られる「運の総量」は、誰にとっても同じようなものです。

