あくまで役割はプロデューサー

しかし、蔦重がKYで、自分本位の要求を押しつけるのにはわけがある。以前にも書いたが、それは「江戸のメディア王」という蔦重の立場に起因する。つまり出版社の社長兼編集者であり、プロデューサーと言い換えてもいい。表で活躍するプレーヤーを育て、その力が最大限引き出されるように導き、社会に向けてPRするのが蔦重の役割である。

蔦重を芸能プロダクション、歌麿を俳優やタレントに置き換えればわかりやすい。芸能プロはタレントの才能を見出し、育て、売り出す。それにあたっては、ある路線を定めてイメージ戦略を重ねていく。駆け出しのころのタレントは、大抵はその方針に素直に従うが、売れっ子になって自負心が育つと、芸能プロのお仕着せをうるさく感じるようになることがある。

そうした舞台裏は、通常は表の世界からはうかがい知れない。だが、たまにもめごとが起きたり、独立騒動が生じたりして、表沙汰になることもある。そんなときは「タレントの意思を無視して型にはめる」として、芸能プロが悪者あつかいされがちである。

一方、芸能プロにいわせれば、お金と時間を投じ、手塩にかけて育ててきたタレントが、いまやっと稼ぐようになったのである。しっかり利益が上がるように、タレントの仕事を方向づけるのは当然なのに、タレントからはKYのようにいわれてしまう。手のひらを返されて困惑している、というのが芸能プロの言い分になる。

歌麿を主人公にしていたら

だが、表に露出しているのはタレントだから、一般の人はどうしてもタレントの側からものを見る。芸能プロという裏方の視点から眺めるのは、一般の人には難しい。だから、歌麿との関係において、あるいは、ほかの戯作者や絵師、あるいは吉原の女郎との関係においても、蔦重はいつも無理な要求をぶつける理不尽な男に見えてしまう。そのことは、大河ドラマの主人公にとっては、決定的な弱点なのではないだろうか。

では、仮に蔦重ではなく歌麿を主人公にしていたらどうだっただろうか。歌麿については、生まれもわからず、売れっ子になってからの私生活も判然としない。蔦重のほうが吉原で生まれたことや、7歳で実の父母と別れたことなど、わかっていることがある。とはいえ、謎が多いことでは歌麿とどっこいどっこいだともいえる。

喜多川歌麿の肖像画(鳥文斎栄之筆・大英博物館所蔵)
喜多川歌麿の肖像画(鳥文斎栄之筆・大英博物館所蔵)(写真=PD-old-100-expired/Wikimedia Commons)

「べらぼう」では、歌麿の少年時代を謎の少年「唐丸」とし、じつは夜鷹の息子で、母親やその愛人からひどい虐待を受けていた、という設定にしていた。それは歌麿の少年時代が謎であるがゆえのフィクションだが、この時代ならあってもおかしくない状況で、視聴者の時代への理解にも寄与したと思う。つまり、放送されたのと同じ設定で、歌麿を主人公にできたのではないかと思う。

歌麿は当初、蔦重のもとで黄表紙や洒落本の挿絵を描いていた。当然、吉原にもよく出入りしていたはずだから、歌麿を主人公にしても、吉原のこともしっかり描けたに違いない。