※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
男の都合に振り回され、開き直った女
エキセントリック・ウーマンといえど家父長性に貫かれた戦前期、親や男兄弟の影響は避けがたい運命だ。しかし、一旦は運命に翻弄されたもののいっそ開き直った女がいる。
その名を小林孝子、最初に世に出た際には例によって「虚飾の女」「虚栄の権化」と言われたが、ある時期から自ら「金色の夜叉」(金の亡者の意)になろうと決心するのである……!
以下は、1930(昭和5)年におもに孝子が山西健吉に語った『小林孝子懺悔秘話』の要約である。
孝子の父、小林八郎は学もないまま身一つで明治20年代に書肆「集英堂」を立ち上げ、教科書出版を一手に引き受けて巨万の富を築いた実業家である。
この時代の男性の習いどおり方々に妾がおり、そのひとり、下谷芸者に産ませたのが孝子だった。正妻との間にはすでに5人の子どもがいたが、それぞれに女中や看護師をつけ三越の支払いが月々1万円(3000万から1億円)を超えるなど皆が豪勢な生活をしていた。孝子も同様で、正妻と子どもが大磯に引っ越すと、両親と兄弟で神田山本町(現千代田区外神田四丁目)に住まい、18歳まで東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に通った後は、お茶やお花、琴などを習って令嬢として暮らしていた。
実業家の父が没落、65歳の老大臣との結婚話
しかし、正妻が相場にはまり、父もつられて手を出してあっという間に資産が無くなった。日光の別宅も大磯の別荘も人手に渡り、正妻は総勢11名連れで神田にやって来て妻妾同居とあいなった。また、折悪く父は「教科書疑獄事件」にも巻き込まれた。
「教科書疑獄事件」とは、1902(明治35)年に起きた教科書を発行する出版社とそれを採択する側との間にあった贈収賄事件で、枢密院議長の辞任にはじまり、多数の出版社が検挙され、栃木県と新潟県の知事、文部省担当者、学校長など、40道府県200人以上が摘発された出版史に残る事件である。実際に有罪になった人数は3分の2ほどだが、これをきっかけに教科書は国定化された。
家運が傾くなか、にわかに浮上したのが19歳になった孝子の結婚話だった。
相手は時の宮内大臣で伯爵の田中光顕、驚くなかれ御年65歳である。
伯爵といってもいわゆる勲功華族であり、もとは高知の山奥の貧農の生まれである。維新の風に乗って土佐の志士として討幕に奮闘し、1868(明治元)年の兵庫県判事拝命から陸軍少将、元老院議員などを経て子爵となり、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長を歴任して1907(明治40)年に伯爵となった。最初の妻は5年で亡くなり、次の妻は30年連れ添って病死、孝子と出会ったのはその2年後だった。


